水滸伝 年表
●はじめに
本項には、『水滸伝』の年表を掲載している。ただし、どのようにデータを取り扱うかで年表の内容も変わってくるため、下記の表にそれぞれをまとめた。
嘉祐3年1月 疫病が流行する
引首。各地で疫病が発生し、多数の死者が出る。地の文に「嘉祐三年上春間」とある。「上春」は陰暦1月のことであるため、嘉祐3年1月に疫病が流行したことになる。
嘉祐3年3月3日 仁宗、詔を降し、洪信を龍虎山に遣わす
第1回。朝廷では蔓延する疫病に対する協議が行われ、張天師を呼び寄せて祈禱をさせることに決めた。そのため、洪信を龍虎山に遣わしたが、任務を果たした洪信は、ふとしたことから百〇八星の封印を解いてしまう。
地の文に「嘉祐三年三月三日五更三點」とあるため、これをそのまま採用する。ここまでは百〇八星が解き放たれるまでのプロローグであるため、本編には直接影響しない。
元豊5年7月16日 徽宗誕生
『宋史』の第19巻、本紀19巻の「徽宗本紀1」によると、徽宗こと趙佶は元豐5年10月丁巳(10日)に産まれている。しかし、『水滸伝』の第40回では、蔡得章らが宋江と戴宗を処刑する日を決める際、黄孔目が「後日又是七月十五日中元之節、皆不可行刑。大後日亦是國家景命」と語っている。
7月15日の翌日が「景命」、つまり今上帝の誕生日ということになるため、『水滸伝』の作品内世界では7月16日が徽宗の誕生日ということになる。年代については特に指定が無いため、史実に合わせた。
元符3年7月14日 哲宗死去。徽宗即位
『宋史』の第18巻、本紀18巻の「哲宗本紀2」によると哲宗は元符3年1月己卯(12日)に死去している。一方、『水滸伝』の第40回では、蔡得章らが宋江と戴宗の処刑執行日を話し合った際、黄孔目が「明日是個國家忌日、後日又是七月十五日中元之節」と言っている。
7月15日の前日が国家の忌日、つまり先帝が死去した日ということになるため、『水滸伝』では7月14日に哲宗は死去したことになる。年代については特に指定が無いため、史実に合わせた。また、史実では哲宗は後継者を立てないまま死去したため、その日のうちに首脳部による会議が行われ、徽宗が後継者に定められて即位しているが、これもそのままとした。
政和元年8月ころ 高俅、徽宗の隨駕となる
第2回。蹴鞠の縁で徽宗の寵臣となった高俅は、まず隨駕として徽宗の車賀に侍ることとなった。その「後來沒半年之間」の後、殿師府太尉にまで昇進することになる。
後述の通り、政和2年2月ころに高俅が殿師府太尉に就任したとすれば、その半年ほど前に高俅は隨駕になったということになるため、政和元年8月ころの出来事ということになる。
政和元年 林冲、張氏を娶る
第8回。高俅に陥れられ、蒼州への流刑に処された林冲は、舅の張教頭と語らい、妻との結婚生活を振り返る。この事件自体は政和4年6月に起こっており、その会話文の中に「已至三載」とある。つまりは3年前に張氏を娶ったことになるため、政和元年の出来事ということになる。
政和元年 宋江と花栄が別れる
このころの宋江と花栄は行動を共にしていたが、この辺りで別々の道を歩むことにしたらしい。第33回で花栄が宋江と再会した際、別れてから「早五六年」と言っている。これは後述の通り、政和6年の出来事であるため、数字の早い方を取って5年前とすれば、政和元年の出来事ということになる。
政和2年2月ころ 高俅、殿師府太尉に就任。王進親子、出奔する
第2回。高俅は殿師府太尉に就任するが、かつて叩きのめされた武術の師の息子である王進を見とがめる。後難を恐れた王進は母を連れて禁軍を出奔、延安府の种師道の庇護を受けるべく旅に出る。
地の文では「在路上一月有餘」の後、王進らは史家村に到着、ここで母が病に倒れたため、「住了五七日」して快復を待った後、後述のように、政和2年3月ころに王進と史進が戦い、敗れた史進が王進を師と仰いでいる。これらのことから、およそ40日弱の時間が経過して政和2年3月ころになったと考えられるため、政和2年2月ころの出来事とした。
政和2年3月ころ 史進、王進に敗れ、師事を乞う
第2回。史進は王進の漏らした言葉を聞きとがめ、勝負を挑むが、完敗して彼を師と仰ぎ、武芸十八般の習熟に励む。地の文では「早過半年之上」の後、王進は史家荘を出立することになるが、後述の通り、それを政和2年9月ころとすると、その半年前に史進と王進の勝負があったことになるため、政和2年3月ころの出来事ということになる。
政和2年6月3日 王婆、紫石街に茶店を開店する
第24回。西門慶との会話中に王婆は「三年前六月初三」に茶店を開いたと語っている。これが政和5年12月ころの話であるため、その3年前は政和2年ということになる。
政和2年9月ころ 王進親子、史家村を出立、延安府に向かう
第2回。王進親子が史家荘を出て「不到半載之間」の後、史大公が病に倒れ、「數日不起」の後、死去している。後述の通り、史大公が死去した時期を政和3年6月ころとすると、その半年よりも少し前に王進親子は出立したことになるため、その時期は政和2年9月ころということになる。
ただし、「不到半載之間」という、あいまいな表現に加え、史大公が病床にあった数日間まで加味すると、実際の時系列にはかなりのぶれが生じる可能性がある。
政和2年中 楊林、鄧飛と別れる
第44回。戴宗は公孫勝を探す旅路の途中で楊林と出会い、意気投合する。2人は飲馬川に差し掛かったところで賊の襲撃を受けるが、それは5年前に別れた楊林の弟分の鄧飛であった。
楊林が鄧飛を戴宗に紹介する際、「一別五年」と言っている。この時は政和7年であるため、彼らが分かれたのは政和2年内ということになる。
政和3年3月ころ 史大公死去
第2回。史大公は史進の父。地の文に「又早過了三四個月日。時當六月中旬」とある。後述の通り、「六月中旬」が確定しており、その「三四個月日」ということであるため、2月中旬から3月中旬ということになる。時系列にブレがあるため、「ころ」というあいまいな表現を使用した。
政和3年6月中旬 史進、史家村中に触れを出し、少華山の賊に備える
第2回。猟師の李吉から少華山に山賊が住み着いたことを知らされた史進は、史家村の村人を集め、山賊に備えるように伝える。地の文に「六月中旬」とある。本編開始以降、はじめて具体的な時系列が判明する描写である。ここから遡ることにより、これ以前の時系列を確定することができる。
政和3年8月15日 李吉、史進と朱武らの関係を密告する
第2回。李吉はふとしたことから史進が朱武ら少崋山の山賊らに当てた招待状を入手、華陰県の役所に密告する。地の文に「八月中秋」とある。「中秋」は15日にあたるため、この日が8月15日であることが確定する。
政和3年9月初頭 史進、魯達と出会う。魯達、鄭大官人を殺して出奔する
第3回。官憲を敵に回した史進は故郷を捨てて逃走、師の王進がいる延安府を目指す。その途上で渭州にたどり着き、提轄の魯達と意気投合するが、魯達は鄭大官人の悪事を知り彼を殺害、史進もまた渭州を後にする。
地の分によると、政和3年8月15日の騒動から「半月之上」に史進は渭州に到着しているため、政和3年9月初頭の出来事であると考えられる。
政和3年9月中旬 魯達、代州に逃走する
第3回。逃走した魯達は代州に到着、ここで鎮関西の魔の手から助けた翠蓮と再会し、彼女を娶った富豪の趙員外の機転により、五台山で出家して安全を確保することになる。
地の文によると、魯達による鎮関西殺害から代州到着までの時間は「半月之上」である。上記の通り、鎮関西殺害は政和3年9月初頭に行われているため、代州に到着したのは9月中旬ということになる。
なお、道中の日数について、第4回で魯達自身は「一到處撞了四五十日」と語っている。つまりは1ヶ月半以上の時間がかかっているということであるが、こちらを採用すると、政和3年の「初冬」に彼が五台山で狼藉を働いたという描写と矛盾するため、こちらは採用しない。
政和3年10月 魯智深、五台山で暴れる
第4回。魯達は出家して魯智深となるが、酒を飲んで狼藉を働き、寺内の施設を破壊、数十人に怪我を負わせた。地の文に「初冬」とあり、これは旧暦10月にあたるため、時系列は確定している。
ただし、その前の文章に「不覺攪了四五個月」とある。これは「知らず知らずのうちに4、5ヶ月が経過した」ということであるが、これまで計算してきた時系列と合わないだけでなく、第2回で文中に明示されている「八月中秋」から計算してさえも時系列に乱れが生じるため、ここでは考慮しないことにする。
政和4年2月 魯智深、再び五台山で暴れ、追放される
第4回。以前の事件以来、魯智深はおとなしくしていたが、再び酒を飲んで暴れ出したため、五台山から東京開封府の大相国寺に追放された。
地の文に「二月間」とあるため、この事件が2月に起きたことは間違いない。ついでに、前回の事件が10月に起きているため、年が明けていることも確実である。
なお、これより少し前の文章に、前回の事件から「一連三四個月」が経過していると記されている。10月から3、4ヶ月たって2月になったということであるため、時間の経過としては合致している。
政和4年2月下旬 魯智深、桃花村に立ち寄り、周通を退治する
第5回。魯智深は大相国寺に向かう旅の途中で桃花村の劉大公の邸宅に立ち寄る。劉大公は、娘を貰い受けようとする山賊に悩まされていたため、魯智深は山賊退治を申し出、出向いた山賊の周通を撃退、報復に駆けつけた周通の兄貴分の李忠とは知り合いであったため、うまく話をまとめる。
地の文には、魯智深が五台山を出てから「行了半月之上」の出来事であることが記されている。それが2月中の出来事であるため、この事件は2月の下旬、あるいは3月の初頭であると考えられる。
政和4年3月28日 魯智深、林冲と出会う。高衙内、張氏を襲う
第7回。大相国寺の菜園の番人となった魯智深は林冲と出会い、意気投合する。林冲は女中の錦児より別行動をとっていた妻の張氏が襲われたと知らされ、魯智深と別れて暴漢を撃退するが、その暴漢は高俅の養子の高衙内であった。
地の文に「三月盡」とあることから、まず3月の末の事件であることが分かる。さらに、その後の高衙内が高俅に助けを求めるシーンでは、「前月二十八日」と語っているため、これらを合わせると3月28日ということになる。
政和4年4月1日 富安、高衙内に入れ知恵をする
第7回。以前の事件より張氏に執着する高衙内に対し、取り巻きの富安は林冲の友人である陸謙を味方に引き込むように提案する。地の文に「過了三兩日」とあり、上記より事の発端となる事件が3月28日に起きていることから、その3日後の4月1日の出来事ということになる。
政和4年4月2日 高衙内、陸謙を味方に引き入れる
第7回。前述の密議により、高衙内は林冲の友人である陸謙に接触、彼を味方に引き入れた。その日の昼ごろ、陸謙は林冲を酒場に誘い出し、そのすきに高衙内が林冲の邸宅に押し入ったものの、林冲は再び錦児より知らせを受け、高衙内を退けた。
地の文に高衙内と富安が語らった日の「次日」とある。上記の通り、その日を4月1日とすれば、その次の日は4月2日となる。
政和4年4月6日 林冲、魯智深と再会する
第7回。ここ数日間の出来事で気が立っていた林冲であるが、彼を心配して来訪した魯智深を快く迎え入れ、再び2人で飲み歩くようになった。
地の文に「第四日」とある。上記の通り、高衙内が再度張氏を襲ってから4日目ということになる。この事件は4月2日に起きているため、その4日後ということは4月6日となる。
政和4年4月下旬 高俅、高衙内のために林冲の排除を容認する
第7回。高俅は高衙内の病の原因が張氏に対する情欲であることを知らされ、富安と陸謙が提案した林冲の排除を容認する。高俅に状況を説明する都管の言葉に「便是前月二十八日在嶽廟裏見來、今經一月有餘」とあり、上記の高衙内が張氏を襲った3月28日の事件から、およそ1ヶ月が経過していることが分かる。
政和4年6月 林冲、滄州に流刑となる
第8回。林冲は高俅の仕掛けた罠にはまり、高俅暗殺の容疑をかけられる。彼を殺したい高俅サイドと法に基づいた処置を下したい官吏サイドとの駆け引きの結果、林冲は滄州に送られ、雑役に服することとなった。
流刑の道中を描写した地の文に「六月」とある。
政和4年冬 陸謙、管営と差撥に林冲の殺害を依頼する
第10回。滄州に到着した林冲は、道中で知り合った柴進の助力もあり、それなりに快適な生活を送っていた。しかし、彼の殺害をあきらめていない高俅たちは、陸謙を管営と差撥に接触させ、林冲の合法的な抹殺を依頼させる。
地の文に「迅速光陰、卻早冬來」とある。ちなみに、管営と差撥は、いずれも役職名であり、ちくま文庫の翻訳では、「管営」が「典獄」、「差撥」が「番卒頭」と意訳されている。
政和4年中 孫二娘、行者を殺す
第31回。張青と孫二娘の夫婦が経営する酒屋は、客を毒薬で麻痺させ、殺して饅頭の材料にしていた。張青は、出家、妓女、護送中の流刑囚らの殺害を孫二娘に禁じていたが、孫二娘は巨漢の頭陀を殺害し、その荷物を奪ってしまう。
張青夫妻は鴛鴦楼で殺人を犯した武松を匿い、上記の頭陀の装束を借りて行者に化けるように提案した。この時、孫二娘が「二年前」に頭陀を殺害したと語っている。鴛鴦楼の事件は政和6年に起きているため、その2年前であれば政和4年ということになる。
政和4年中 石勇、柴進の庇護を受ける
第35回。宋江は、仲間を引き連れて梁山泊に向かう途中で酒屋に立ち寄り、石勇と席の取り合いで対立する。その際、石勇は自分が頭を下げる人物は宋江と柴進だけであると宣言するが、相手が宋江であることを知ると謝罪し、宋清から託された手紙を渡した。
地の文に「三年前在柴大官人莊上住了四個月有餘」とあり、石勇は3年前に4ヶ月ほど柴進の邸宅にいたことが分かる。上述の事件は政和7年2月ころに起こったと考えられるため、その3年前は政和4年ということになる。
なお、政和4年には、林冲も柴進の庇護を受けている。また、武松も滞在していた可能性が高い。彼らの間に面識があったのかもしれないと考えると、実に楽しい。
政和4年中 盧俊義、賈氏を娶る
第61回。盧俊義が呉用に騙されて長旅に出ようとした際、結婚5年目の妻の賈氏は、燕青や李固とともに彼を諌めたが、盧俊義は聞き入れず、梁山泊を通りかかった際に拉致された。
地の文に「纔方五載」とある。上記の出来事は宣和元年5月ころに起こっているため、その5年前であれば政和4年ということになる。ちなみに、政和4年当時、盧俊義は26歳、賈氏は19歳(いずれも満年齢換算)であった。
政和5年2月9日 楊志、罪人として北京大名府に到着する
第12回。楊志は東京開封府で殺人を犯したが、相手が悪党であったこともあり、減刑されて北京大名府で雑役に服することになった。しかし、大名府の留守司である梁世傑は楊志の才能を高く評価し、罪人ではなく自分の部下として取り扱った。地の文に「二月初九日」とある。
政和5年2月中旬 梁世傑、武芸の調練を実施する
第12回。地の文に「二月中旬」とある。梁世傑は楊志を重く用いようとしたが、部下たちの反発を懸念していた。そのため、楊志を武芸の調練に酸化させ、その実力を示させることで、彼らを納得させようとした。その結果、楊志は正牌軍の索超と引き分け、索超とともに管軍提轄使に取り立てられた。
政和5年5月5日 梁世傑、蔡夫人と生辰網の相談をする
第13回。梁世傑は、舅の蔡京の誕生日祝いとして、10万貫相当の生辰綱を準備していた。しかし、前年は生辰綱を盗賊に奪われていたため、妻の蔡夫人と警備の人選について話し合った。
地の文に「時逢端午」とある。「端午」は「端午の節句」のことで5月5日にあたる。
政和5年5月上旬 呉用、阮氏三兄弟と接触するため、東渓村を出る
第15回。晁蓋、呉用、劉唐らは、梁世傑の生辰綱の強奪を計画した。そのための同志の候補として、呉用は阮小二、阮小五、阮小七の三兄弟を挙げ、彼らに探りを入れるべく、石碣村へと旅立った。その際の呉用の発言に「五月初頭」とある。
政和5年5月中旬 楊志、生辰綱の輸送任務に就く
第16回。地の文に「五月半」とある。梁世傑は生辰綱を蔡京に送り届けるため、楊志を輸送隊長に任命した。楊志は盗賊の裏をかくため、行商人を装い、あえて少人数で行動することを提案、それが採用されると、十数人を率いて大名府から開封府へと向かった。
政和5年6月3日 晁蓋一行、安楽村に宿泊する
第18回。晁蓋一行は黄泥岡で生辰綱の輸送隊を待ち受けるため、近所の安楽村に宿を取った。この時、宿帳を担当していた何清は晁蓋の顔を見知っていたが、彼が偽名を使ったことから不信感を抱き、その翌日に生辰綱の強奪事件があったことから、晁蓋が犯人であると確信した。
何清が兄の何濤に状況を説明した際に、「六月初三日」と語っている。
政和5年6月4日 晁蓋ら、楊志の一行から生辰綱を強奪する
第16回。地の文に「六月初四日」とある。晁蓋一行は行商人と酒屋の2グループに分かれて黄泥岡で休憩中の楊志の一団と接触、行商人グループが酒屋グループの酒を飲んで楊志らの警戒心を解き、彼らが酒を求めたところで酒に毒薬を混ぜ、麻痺した一行から生辰綱を強奪した。
楊志は毒薬入りの酒を少ししか飲まなかったため、同行者たちよりも早く痺れから回復したが、任務の失敗を悟って逃走した。一方、取り残された生辰綱の輸送隊の面々は、逃亡した楊志に責任を押し付けることとし、この事件のあらましを所轄の済州に報告することに決めた。
政和5年6月5日 楊志、魯智深と出会う
第17回。逃亡中の楊志は、立ち寄った曹正の酒屋で無銭飲食を試みた。曹正が咎めると、楊志は武勇のほどを見せつけることで曹正を感服させた。
その後、楊志は曹正の勧めで二竜山に登り、山賊の一員に加わろうとするが、途上で魯智深と遭遇、彼の起こした騒動で二竜山が守りを固めたことを知ると、曹正の酒屋に戻り、二竜山乗っ取りの計画を練った。
一方、生辰綱の輸送隊の面々は、事件について済州に報告すると、梁世傑のもとに戻っていった。
地の文に「漸漸天色明亮」とある。これは、「夜が明けてきた」ということである。つまりは、生辰綱が強奪された6月4日から時間が経過し、夜が明けたということであるため、6月5日の出来事ということになる。
政和5年6月6日 魯智深と楊志、二竜山を占拠する
第17回。魯智深、楊志、曹正らは二竜山を占拠するために一計を案じた。それは、二竜山の山賊団と諍いを起こした魯智深を縛り上げ、首領の鄧竜に献上するという名目で二竜山に入り込むというものであった。
この策略は図に当たり、魯智深らは油断した鄧竜を殺すと、そのまま二竜山を掌握、ただちに魯智深を首領とする新体制を敷いた。しかし、曹正は山賊となることを好まず、酒屋に戻っていった。
地の文に「次日」とある。時系列が確定している6月4日の出来事から計算していくと、前述の通り、6月5日の出来事があり、その「次日」となるため、6月6日の出来事であることが分かる。
政和5年6月中旬 生辰綱の輸送隊、大名府に帰還する
生辰綱の輸送隊は大名府に帰還すると、任務の失敗を梁世傑に報告した。その際、かねてからの打ち合わせ通り、1人で逃走した楊志に責任を負わせている。梁世傑は激怒し、蔡京に状況を報告、蔡京は即座に賊を捕らえるよう、管轄の済州に布告を出した。
第17回で生辰綱の輸送隊が梁世傑に状況を説明した際、出立より「五七日後」に生辰綱を奪われたと言っている。ただし、第16回では「十四五日」とあり、描写は矛盾している。いずれにしても、上述の通り、生辰綱の強奪事件は6月4日に起きているため、6月中旬の出来事であることは間違いない。
政和5年8月中旬 宋江、閻婆惜を殺す
第20回。地の文に「八月半」とある。宋江は、生辰綱の一件で晁蓋を助けた。後に晁蓋が梁山泊の首領になると、その時の謝礼と感謝状を贈られたが、宋江は感謝状だけを受け取り、謝礼は断った。しかし、その感謝状を内縁の妻の閻婆惜に見られてしまい、謝礼を差し出すように脅迫されたことから、閻婆惜を殺してしまう。
政和5年10月 武松、景陽岡の虎を退治する
第23回。地の文に「十月」とある。武松は故郷に帰る途中、景陽岡で虎に襲われたが、返り討ちにした。
政和5年11月 藩金漣、武松を誘うが拒絶される
第24回。地の文に「十一月」とある。潘金蓮は夫の武大の不在中、その弟の武松を誘惑するが、拒絶された。
政和5年12月8日 劉高夫人の母死去
この日に劉高夫人の母親が死去したため、翌年の同日に劉高夫人は一周忌の墓参りに出かけたが、清風山の山賊団に拉致された。第32回、宋江が劉高夫人に素性をたずねる場面で、劉高夫人は「今得小祥」と言っている。「小祥」は「小祥忌」、つまりは一周忌のことであり、この日は後述の通り政和6年1月8日にあたるため、その前年であれば政和5年1月8日ということになる。
政和6年1月 武松、任務を終え、開封府を出立する
第26回。地の文に「新春」とある。「新春」とは1月のことである。武松は虎退治の功績によって陽穀県の都頭に取り立てられていたが、陽穀県の知県の命により、開封府にいる知県の親戚に知県が貯め込んだ財貨を送り届けることとなった。任務を果たした武松は、再び陽穀県に向かって旅立った。
政和6年1月13日 鄆哥が王婆に叩きのめされる
第26回。地の文に「正月十三日」とある。鄆哥は西門慶と潘金蓮の密通の現場に立ち入ろうとしたが、王婆に叩きのめされた。これを恨んだ鄆哥は、この一件を潘金蓮の夫の武大に教えた。
政和6年1月14日 武大、藩金蓮の浮気現場に踏み込む
第25回。1月13日に鄆哥から西門慶と潘金蓮の密通を知らされた武大は、その翌日に現場を抑えるが、西門慶に蹴り倒され、瀕死の重傷を負った。
第25回の地の文に「次日」とあるが、この段階では、いつの「次日」かは分からない。しかし、前述の通り、第26回で「正月十三日」の「次日」ということが判明するため、1月14日の出来事であることが分かる。
政和6年1月15日 西門慶、潘金蓮との密通を続ける
第25回。西門慶は潘金蓮との密通を見つかり、武大を蹴り倒して逃げたが、武大が一命をとりとめたと知ると、その翌日から潘金蓮との情事を再開した。ちなみに、西門慶らは隣家の王婆の家で関係を持ち、武大は自宅に寝かされている。
地の文に「次日」とある。前述より1月14日の「次日」であることが分かるため、1月15日の出来事ということになる。
政和6年1月20日 西門慶ら、武大の殺害を決意する
第25回。武大は重体のまま放置されたことに怒り、県庁の任務で不在中の武松が帰ってきてからのことを持ち出す。武松による報復を恐れた西門慶、潘金蓮、王婆らは武大を殺して口を封じる決意をした。
第25回の地の文に「武大一病五日」とある。上述のように、1月15日に武大が西門慶に蹴り倒されてから5日後ということであるため、1月20日の出来事であるということになる。
また、第25回中の西門慶の発言に「明日五更來討回報(明日は5更に首尾を聞きにくるから)」とある。そして、実際に西門慶が潘金蓮らのもとを訪れたのが、武大の死亡した日であるため、この出来事は武大の死亡した日の前日であることになる。
後述のように、武大の遺体の検分が行われたのが1月22日であり、その前日の1月21日に武大が死亡している。その前日ということであれば、1月20日の出来事ということになり、時系列は一致している。
政和6年1月21日 潘金蓮、武大を毒殺する
西門慶は薬屋を営んでおり、劇薬である砒素を取り扱っている。王婆は彼からもらった砒素と潘金蓮に買わせた薬から毒薬を調合し、潘金蓮は、それを武大に飲ませて殺害した。
この事件自体は第25回で起きている。しかし、この時点では、潘金蓮と何九叔の会話から、何九叔が武大の遺体を検分した日の前日に武大が死亡したということしか分からない。
これに加えて、第26回で武松と何九叔が話し合った際、何九叔は1月22日に武大の遺体を検分したと語っているため、前述の事情と合わせて、1月21日に武大が殺されたことになる。
政和6年1月22日 何九叔、武大の遺体を検分する
王婆らは地方上團頭の何九叔に武大の検死を依頼した。さらに、西門慶は彼に賄賂を渡し、事を荒立てないようにようにほのめかした。しかし、何九叔は武大の遺体を見てただ事ではない事態が起こったことを悟り、密かに遺骨の一部を持ち帰って証拠の品とした。
これまでも何度か触れているが、この事件は第25回で起きているものの、実際に時系列が確定するのは、第26回で武松が何九叔から話を聞き出した際の何九叔の証言である。
政和6年2月 閻婆死去
宋江に娘の閻婆惜を殺された閻婆は、宋江の逮捕をしきりに訴えていたが、それを見ることなく死去した。第36回に「那時閻婆已自身故了半年」とある。閻婆惜は政和5年8月に殺され、それより半年して閻婆も死去したということになるため、政和6年2月ころの出来事となる。
政和6年2月 王慶、童貫の養女嬌秀と密通する
その日の仕事を終えた王慶は、童貫の養女で蔡京の孫に嫁ぐ予定の嬌秀を見初め、嶽廟まで後をつけたが、従者にばれて殴れたため、逃走した。しかし、政略結婚に嫌気がさしていた嬌秀も王慶を気にしており、2人は密通することになる。
120回本の第101回に「政和六年仲春」とある。「仲春」は2月のことであるため、政和6年2月の出来事ということになる。
政和6年3月7日 武松、陽穀県に帰還、武大の死を知る
武松は公務を終えて開封府から陽穀県に戻ってきたが、潘金蓮から武大が死亡したことを知らされた。武松が武大を弔うと、武大が化けて出て無念を訴えたため、武松は兄の死に不信を抱き、独自に調査する決意を固めた。
まず、第26回の地の文に「三月初頭」とある。さらに、その後の武松と潘金蓮のやり取りの中で、潘金蓮は武大の死から「再兩日、便是斷七(あと3日で、49日ですわ)」と言っている。つまり、この出来事は1月21日の46日後にあたるということである。
本来であれば、政和6年は本来の1月とは別に閏月の1月があるため、これに基づいて日数を算出すると2月8日となる。ただし、この場合は上述の「三月初頭」とは矛盾が生じる。一方、閏月を考慮に入れないと3月7日となり、こちらは「三月初頭」と合致するため、『水滸伝』の作品内世界的には政和6年閏月1月が無かったものと見なし、こちらを採用する。
政和6年3月8日 武松、証拠を揃えて西門慶を告発する
武松は、何九叔から武大の遺骨と西門慶からもらった賄賂を武大殺害の証拠として受け取り、鄆哥から西門慶と潘金蓮の密通の証言を得ると知県のもとに出向き、彼らを証人として西門慶を告発した。しかし、西門慶も賄賂をばらまき、罪を逃れようとする。
第26回の地の文に「次日」とある。前述のように、3月7日の「次日」であるため、この日は3月8日となる。
政和6年3月9日 武松、証拠を揃えて西門慶を告発する
西門慶から賄賂を受け取った知県は、武松の訴えを退けた。そのため、武松は近所の人たちをもてなすという名目で潘金蓮と王婆を拘束すると、潘金蓮を脅迫し、事件の全貌を聞き出したうえで殺害した。さらに、その日のうちに西門慶を探し出すと、彼も殺して武大の仇を討ち、近所の人たちを証人として、役所に出頭した。
第26回の地の文に「次日」とある。時系列的に前述、3月8日の「次日」にあたるため、3月9日の事件ということになる。なお、武松が近所の人たちを招こうとした際の発言の中に「明日是亡兄断七(明日は兄さんの四九日でしょう)」とあるように、この翌日が武大の四九日となる。
政和6年3月 范全が公用のため東京に来訪、王慶の家に泊まる
房州の両院押牢節級の范全は、3月に公用で開封府に出向き、その際に従弟の王慶の家に泊まった。120回本の第103回において、殺人を犯した王慶が逃走中に偶然范全と再会した際、王慶が心の中で「春三月中」の出来事であったと語っている。
政和6年5月 王慶と嬌秀の密事が露見する
政和6年2月以降、王慶と嬌秀は密通を続けてきたが、王慶が泥酔した際に口を滑らせたことにより、事が明るみに出た。120回本の第101回の地の文に密通をはじめてから「過了三月」とある。上述の通り、2人の密通は政和6年2月からはじまっているため、その3か月後ということは、5月ころの事件ということになる。
政和6年5月28日 王慶、陝州の牢城への流刑に処される
王慶は嬌秀との密通によって蔡京や童貫らに睨まれ、20杖の杖刑に処された後、陜州に流されることになった。120回本の第102回に「辛酉日」とある。前後の事情により、この事件は5月以降6月以内でなければならないが、その条件を満たす辛酉の日は5月28日となる。
政和6年6月 武松、孟州に護送される
潘金蓮と西門慶を殺したことで投獄された武松は、孟州の牢城で軍役に服することとなった。第27回の地の文に「六月前后」とある。「前后」は「前後」と同じ意味である。
政和6年6月上旬 王慶、療養を終え、陝州の牢城に出立する
5月28日に陜州への流刑が言い渡された王慶は、まだ杖刑の傷が癒えていないことを理由に療養を願い出た。彼から賄賂を受け取った護送役人は、人里離れた民家に王慶を10日程度留まらせ、傷が癒えたところで陜州へと出立した。
120回本の第102回に「調治十餘日」の後、「六月初旬」に出立したとある。5月28日から10日程度経過したとすれば、6月8日前後になっているため、「六月初旬」で計算は合う。
政和6年6月下旬 武松、十字坡の酒場で孫二娘を打ち倒す
武松と護送の役人たちは、道中で酒場に立ち寄った。女将の孫二娘は毒薬の入った酒を飲ませて武松らを殺害しようとしたが、魂胆を見抜いた武松は、飲んだふりをしてやり過ごし、逆に孫二娘を打ち倒すと、彼女の夫の張青から事情を聞き出し、和解した。
第27回の地の文に「约莫也行了二十余日」とある。前述の通り、武松たちが出立したのが6月であるため、その20日後であれば、まだ6月の下旬であるため、6月下旬の出来事となる。
政和6年6月下旬 武松、孟州でのもてなしに疑問を抱く
孟州にたどりついた武松は、労役の免除や食事面で予期せぬ厚遇を受けた。しかし、武松はかえって状況を怪しみ、理由をたずねる機会をうかがうことにした。
第28回の地の文に「五六月」とある。これまでの状況から、5月であることはあり得ないが、同時に、まだ7月になっていないことが分かる。
政和6年6月下旬 王慶、龔家村で龐元を叩きのめす
王慶と護送の役人たちは、通りかかった龔家村で武芸者の龐元による演武を目撃した。この時、王慶が龐元の手並みにケチをつけたことから2人は口論となるが、龔端と龔正の兄弟が現れ、賞金を出すことで2人を勝負させた。王慶が龐元を一蹴すると、龔兄弟は賞金を王慶に渡し、一行を家に招いてもてなした。
120回本の第102回に「三個人行了十五六日」とある。6月上旬、厳密には6月8日前後に旅立ってから15日から16日程度経過したということなので、6月23日から24日ころの出来事ということになる。
政和6年7月 武松、蒋忠を打ち倒し、施恩のもてなしに報いる
武松が厚遇されたのは、彼の力を借りようとする施恩の計らいによるものであった。施恩から事情を聴いた武松は、縄張り争いで施恩と対立する蒋忠を叩きのめし、施恩の縄張りに手出しをしないように誓わせた。第29回の地の文に「七月」とある。
政和6年7月上旬 王慶、龔家村を出立する
龔兄弟は、対立する黄達と戦うため、王慶を師と仰いだ。王慶は、因縁をつけに来た黄達を叩きのめした後も、龔兄弟に武術の稽古をつけていたが、黄達が役所に訴え出たこともあり、龔家村を出て陜州に向かった。
120回本の第103回に「自此一連住了十餘日」とある。前述の6月下旬から、10数日程度経過しているとすれば、7月上旬となる。
政和6年8月15日 武松、鴛鴦楼で張蒙方に捕らえられる
蒋忠を倒した後、武松は兵馬都監の張蒙方に招かれ、厚遇を受けるようになった。中秋節の際、宴に出席した武松は、盗賊が現れたという騒ぎを聞きつけ、助力を申し出るが、暗闇の中で盗賊として捕らえられたうえ、盗品が彼の手荷物から発見されたということで逮捕されてしまう。
実は蒋忠は伝手を使って張蒙方を取り込み、武松を陥れるように依頼していたのである。さらに張蒙方は事態を有利に進めるため、その日のうちに役人に賄賂を送り、後日の裁判で武松を厳罰に処するように手配したした。
第30回の地の文に「八月中秋」とある。「中秋」自体には複数の意味があるが、特に8月の「中秋」と言った場合は、8月15日の「中秋節」、つまりは「中春の満月」を愛でる行事を意味する。
政和6年8月16日 武松、罪を着せられ、投獄される
武松が逮捕された翌日、早急に裁判が開かれたが、張蒙方の裏工作に取り込まれていた役人たちは、武松に拷問を加えて罪を認めさせた。
一方、施恩は恩人である武松の危機を知ると、友人の牢役人である康節級と接触して内情を知り、張蒙方と同様に役人たちに賄賂を贈り、特に裁判担当の葉孔目を味方に取り込むことにより、武松の罪を軽くするように運動した。
第30回の地の文に「次日」とある。前述の「八月中秋」の「次日」であるため、8月16日ということになる。
政和6年8月17日 施恩、武松と再会し、状況を説明する
施恩は賄賂によって役人たちを懐柔し、投獄されていた武松と再会した。施恩は康節級から聞いた事件の真相を話し、武松の減刑のために活動中であることを説明した。
第30回の地の文に「次日」とある。前述の8月16日の「次日」であるため、8月17日ということになる。
政和6年8月19日 施恩、武松と二度目の対面に成功する
施恩は康節級の助力で再び武松と接触、差し入れの食事を提供するとともに、牢役人たちにも賄賂をばらまいて武松を厚遇するように頼んだ。第30回の地の文に「過了兩日」とある。前述の8月17日から2日過ぎたということであるため、8月19日ということになる。
政和6年8月下旬 施恩、武松と三度目の対面に成功する
施恩は三度目の武松との接触に成功し、着替えと食事を運んだ。しかし、施恩の動きを察した張蒙方が取り締まりの強化を役所に依頼したため、これ以上の接触は不可能となった。
第30回の地の文に「過得數日」とある。前述の8月19日から数日後というあいまいな表現ではあるが、19日の数日後であれば、8月20日以降ではあるが、9月に入らないことは確実であるため、8月下旬の出来事ということになる。
政和6年9上旬月 王慶、張世開から角弓の購入を命じられる
陜州に流された王慶は、先に恩を売った龔端らの助力もあって快適な生活を送っていた。ある時、王慶は管営の張世開から角弓の購入を命じられて役目を果たし、目をかけられるようになったが、次第に要求は理不尽なものとなり、罰を受けることが多くなっていった。
120回本における第103回の地の文に「過了兩個月」とある。前述の通り、王慶らが龔家村を出立したのが7月上旬、陜州に到着したのも同時期となるため、それより2ヶ月後であれば、9月上旬ということになる。
政和6年9月中旬 王慶、張世開に立替金の支払いを求めるが拒絶される
王慶は張世開から買い物の用を足すように命じられたが、代金は与えられなかったため、すべて自腹で賄うしかなかった。ある時、王慶は張世開に代金を請求したが拒絶され、やがて龔端らから受け取った賄賂用の資金も底を突きた。
120回本における第103回の地の文に「過了十日」とある。前述の9月上旬から10日後ということであるため、9月中旬の出来事であると考えられる。
政和6年10月1日 施恩、蒋忠に打ち負かされる
武松が投獄されたことで怖いもののなくなった蒋忠は、武松との約束を破り、施恩を打ち負かして彼の縄張りを奪った。第30回、後述する10月16日の時点に施恩が護送される武松と再会した際、それが「半月之前」の出来事であったと語っているため、10月1日前後の出来事ということになる。
政和6年10月上旬 王慶、張世開と龐元の関係を知る
王慶は張世開から杖刑を受け続けて体中が腫れ上がったため、張醫士の治療を受けた。その際、張醫士は、王慶が龔家村で叩きのめした龐元の治療も手掛けたことを語った。さらに、張醫士から龐元が張世開の義弟にあたることを知らされた王慶は、張世開の意図を察知し、密かに手尖刀を購入して備えとした。
120回本における第103回の地の文に「如是月餘」とある。「1月ほど後」ということであるが、前述の出来事のうち、角弓の購入を命じられた9月上旬か、立替金の支払いを求めて拒絶された9月中旬かのいずれを基準とするかで、多少時期は異なってくる。
王慶が張世開を殺した時期が後述するように10月の下旬であるため、この描写と整合性を持たせるため、ここでは、文脈から9月中旬より1か月後の10月中旬の出来事と解釈した。
政和6年10月16日 鴛鴦楼の虐殺事件
武松に対する60日の拘留期間が過ぎた。役所では、張蒙方の陰謀が明らかとなり、施恩の運動もあったことから、武松を恩州への流刑に処することとした。
武松は、蒋忠の報復で負傷した施恩から餞別を受け取った後、護送役人たちとともに出発した。しかし、役人たちは蒋忠と結託しており、途上で蒋忠の弟子と合流して武松を殺そうとした。武松は彼らを返り討ちにすると、事件の全貌と張蒙方らの居場所を聞き出し、彼らがいるという鴛鴦楼へと向かった。
鴛鴦楼において、武松は張蒙方、蒋忠を含む15人を殺害し、自らの名と行状を壁に書き記すと、そのまま逃走した。先に返り討ちにした役人2人と蒋忠の弟子2人も殺しているため、この1日で合計19人を殺した計算となる。
第31回の地の文に「捱到六十日限滿」とある。前述の通り、8月16日に武松は逮捕された後、60日が過ぎたということになる。当時の中国は太陰暦を使用し、政和6年8月は29日で終わるため、ここまでで14日、9月は30日まであるため、ここまでで44日となり、10月16日をもって60日となる。
政和6年10月17日 武松、張青らと再会する
鴛鴦楼から逃走した武松であったが、休憩中に張青の手下に捕らえられるというかたちで張青らと再会する。武松は張青らに事情を話し、彼らのもてなしを受けた。
一方、孟州では鴛鴦楼の虐殺に対する調査が行われ、武松には3000貫の賞金がかけられた。第31回の地の文に「走了一五更、天色朦朦朧朧、尚未明亮」とある。要は夜が明けたということであり、前述の10月16日の翌日になったということであるため、10月17日の出来事ということになる。
政和6年10月21日 武松、行者の装束をまとう
張青は武松に対し、青州の二竜山に居を置く魯智深の庇護を求めるように勧めた。道中の取り締まりに対しては、孫二娘の提案により、かつて彼女が殺した行者の装束をまとって変装することとなった。
その日の道中、蜈蚣嶺に差し掛かった武松は、王道人と敵対して彼を殺し、その手籠めとなっていた張氏を解放すると、青州への旅を続けた
第31回の地の文に「將息了三五日」とある。駒田版では「四五日」と訳されていることもあり、中央値を取って4日とすれば、前述の10月17日から4日後、つまりは10月21日の出来事ということになる。
政和6年10月下旬 王慶、張世開らを殺害する
王慶は張世開の命で緞子を購入したが、買い直しを命じられたうえ、門限に間に合わず、牢城から閉め出された。王慶は途方に暮れた後、張世開の暗殺を決意すると、牢城に忍び込んだ。
そのころ、張世開は龐元とらと酒宴中であったが、王慶は彼らの話を盗み聞きし、自分にとどめを刺そうとしていることを知ると、彼らを殺して逃走した。
120回本の第103回に「仲冬將近」とある。「仲冬」は11月であるため、10月下旬の出来事ということになる。また、同じく第103回の地の文に「過十數日」とある。前述の10月中旬からの十数日ということになるため、ここからも10月下旬の出来事であることが分かる。
政和6年11月上旬 武松、孔明らと対立する
青州の白虎山にたどり着いた武松は、麓の居酒屋で孔亮と諍いを起こし、彼を打ちのめしたが、その後の道中で孔亮の兄である孔明の報復を受けて捕らえられた。
孔明らの邸宅に連行された武松であるが、たまたま滞在していた宋江に取りなされ、孔明らと和解した。第32回の地の文に「又行了十數日」とある。前述の10月21日より「十数日後」ということであるため、11月上旬になっていることは間違いない。
政和6年11月下旬 宋江と武松、瑞竜鎮で別れる
宋江と武松は孔一族のもてなしを受け、彼らの邸宅に滞在していたが、それぞれの目的のために邸宅を後にし、瑞竜鎮まで一緒に旅をしたところで別れた。
上述の11月上旬より「一住過了十日之上」、「又留住了三五日」、「管待一日了」を経た後の出来事である。それぞれ、約10日、約4日、1日に相当するため、合わせて約15日、半月が経過したことにあるため、11月下旬になっていると考えられる。
政和6年12月2日 宋江、燕順らに捕らえられる
宋江は清風塞の知塞で義弟でもある花栄の庇護を受けるため、武松と別れて清風塞に向かったが、その途上の清風山で燕順らに捕らえられてしまう。燕順らは宋江を食べるつもりであったが、宋江が死に際に自分の名をつぶやくと態度を一変させ、丁重にもてなすようになった。
第32回の地の文に「臘月初旬」とある。「臘月」は12月であるため、12月上旬ということになる。さらに宋江が「住了五七日」して「臘日上墳」になっている。「臘日上墳」は12月8日のことであるため、「五七日」の中央を取って6日が経過したものと考えると、12月2日当たりの出来事ということになる。
政和6年12月8日 王英、劉高夫人を捕らえる
山東地方では、12月8日に墓参りをする風習がある。劉高夫人は亡き母の墓参りに行く途中で王英の襲撃を受けて拉致されたが、宋江が王英を説き伏せたために釈放された。第32回の地の文に「臘日上墳」とある。これは上述の通り、12月8日のことである。
政和6年12月14日 宋江、清風山を下り、花栄と再会する
しばらくの間、燕順らの世話になっていた宋江であるが、当初の目的である花栄との再会を果たすため、清風山を下りると、その日のうちに清風塞に入り、花栄と再会した。
第32回の地の文に「了五七日」とある。前述の12月8日より「五七日」ということであるため、例によって中間を取り6日後とすると、12月14日の出来事ということになる。
政和7年1月15日 元宵節。宋江、劉高に捕らえられる
花栄と再会した宋江は、元宵節の日に市内の見物に出かけた。しかし、以前に清風山で助けた劉高夫人に見とがめられ、逃走したところを捕らえられた。
劉高の尋問に対し、宋江が偽名を名乗ったタイミングで、花栄が宋江に別の偽名を使って返還を要求してきたことから話はこじれ、劉高は引き渡しを拒否した。そのため、花栄は武力行使で宋江の身柄を強奪しただけでなく、取り返しに来た劉高の兵士を追い払った。
その後、宋江は花栄に追及が及ぶのを避けるため、1人で清風山に逃走したが、先んじて手を打っていた劉高によって捕らえられた。第33回の地の文に「元宵節」とある。これは1月15日に開かれる祭りのことである。
政和7年1月16日 劉高と黄信、花栄捕縛の策を練る
劉高は花栄の謀叛を府尹の募容彦達に報告した。募容彦達は黄信を劉高の元に遣わし、黄信と劉高は花栄を捕らえるための策を練った。その結果、翌日に花栄を酒宴の席に招き、そのまま捕らえてしまうこととした。
第33回の地の文に「次日」とある。前述の1月15日の「次日」なので1月16日ということになる。
政和7年1月17日 清風山の山賊、青州の護送隊を襲撃する
朝のうちに黄信と劉高は招かれてやってきた花栄を捕らえ、すでに捕縛していた宋江とともに募容彦達のもとに送ることとした。二更时分(10時)、清風山を通りかかった護送隊は山賊の襲撃を受け、黄信は逃走、花栄と宋江の身柄は奪われ、劉高も捕らえられて処刑された。
黄信から報告を受けた募容彦達は、統制の秦明を呼び寄せると、清風山の山賊の討伐を命じた。第33回の地の文に「次日」とある。前述の1月16日の「次日」なので1月17日ということになる。
政和7年1月18日 秦明、清風山に向けて進軍する
秦明は騎兵100人と歩兵400人を率いて募容彦達の元に参じた。募容彦達は兵士たちをもてなし、秦明にも激励の言葉をかけて彼らを見送った。
一方、清風山では、この日に清風塞を襲撃する計画を立てていたが、完全に不意を突かれる形となった。しかし、花栄の進言により、山中に敵を誘い込んで迎撃することとした。
第34回の地の文に「当日清早(早朝)」とある。この前のシーンで1月17日の深夜に募容彦達が秦明を呼び寄せているため、そこから夜が明けて1月18日になっていることが分かる。
政和7年1月19日 清風山の戦い。秦明、山賊軍に敗れる
秦明は五更(4時)ころに清風山についた。清風山の山賊たちは、清風塞襲撃を目論んでいたところで先手を突かれるかたちとなったが、山地に秦明軍を引き込んで翻弄した。戦いは深夜まで続いたが、秦明の軍は壊滅し、秦明も捕らえられた。
第34回の地の文に「次日」とある。1月18日の「次日」であるため、1月19日ということなる。
政和7年1月20日 清風山山賊、青州を襲撃し、秦明に罪を着せる
宋江は捕らえた秦明を歓待しつつ、裏では秦明の鎧を着せた偽物を立てて青州を襲撃した。そのため、募容彦達は秦明の家族を処刑した。それを知らない秦明は辰牌(8時)ごろに清風山を出て已牌前後(12時ごろ)に青州に戻ったが、先の襲撃の惨状を目迎し、募容彦達には反逆者として糾弾された。
逃げ延びた秦明は宋江と再会したが、宋江から全て計算づくの陰謀であったことを明かされた。全てを失った秦明は宋江に服従を余儀なくされ、花栄の妹をあてがわれることになった。書いていて胸糞が悪くなるが、問題は、これ以上に眼をそむけたくなるような展開が待っているということである。
第34回の地の文に「三更时分」とある。これは0時前後ということであり、つまりは1月19日から翌日になったということである。
政和7年1月21日 清風塞、清風山の山賊の襲撃を受ける
秦明は単身清風塞に入り、黄信を説き伏せて内応させた。清風山の山賊は、これに乗じて清風塞に侵入し、劉高の邸宅を襲撃、虐殺を行い、劉高夫人を拉致した後に殺害した。第35回の地の文に「次日」とある。1月20日の「次日」であるため、1月21日となる。
政和7年1月22日 宋江、花英の妹を秦明にあてがう
宋江は、謀殺した秦明の妻の代わりに花栄の妹を秦明にあてがった。ちなみに秦明は6年後の宣和5(1123)年に戦死しているが、2人の間に子供は生まれなかった。
第35回の地の文に「次日」とある。1月21日の「次日」であるため、1月22日となる。
政和7年2月2日 宋江ら、清風山を捨て、梁山泊に向かう
募容彦達は朝廷に前日の一件を報告、大規模な討伐軍の編成を依頼した。それを知った宋江らは先んじて清風山を捨て、梁山泊に向かうこととした。道中では宋江の立案により、逆に討伐軍を装うことで通過した。
第35回では、前述の花栄の妹を秦明にあてがった際の宴が「三五日」続いたとしている。その後、「五七日」後に知らせを受けたため、いずれも中央地を取ると、それぞれ4日と6日、合わせて10日後となる。
政和7年2月5日 徽宗、皇太子を立て、天下に恩赦を出す
徽宗は長子の趙桓(欽宗)を皇太子に指名し、天下に恩赦を出した。そのため、宋江の父の宋大公は、逃亡中の宋江を呼び戻し、裁判を受けさせようと目論んだ。
『宋史』の第23巻、本紀23巻の「欽宗本紀」には「(政和)五年二月乙巳、立為皇太子、大赦天下」とある。つまりこれは史実にちなんだ出来事なのである。「五年二月乙巳」は、政和5年2月5日に相当する。年代はともかく、月日は時系列に合っているため、ここでは月日をそのまま採用し、年代は時系列に合わせるものとした。
なお、『宋史』の第21巻、本紀21巻の「徽宗本紀3」に準拠すると、皇太子を立てたのが乙巳(5日)、それを布告して恩赦を出したのが甲寅(14日)であるため、『水滸伝』の時系列とは矛盾が生じる。しかし、このことからは、著者が「欽宗紀」の時系列を参考にしたことと、作中の時系列をこの時期に想定していたことをうかがうことができる。
政和7年2月8日 宋江ら、対影山で呂方と郭盛に出会う
対影山を通りかかった宋江らは、呂方と郭盛が決闘している所に出くわし、彼らを仲裁した。呂方らは同意し、その日は呂方が宋江らを歓待した。
第35回の地の文に「五七日」とある。これを中央値の6日とし、2月2日の6日後と考えると、2月8日ということになる。
政和7年2月9日 呂方と郭盛、宋江らに合流する
呂方に続いて郭盛が宋江らを歓待した。その後、宋江が梁山泊との合流を勧めると、呂方と郭盛は同意し、対影山を捨てることにした。第35回の地の文に「次日」とある。2月8日の「次日」であるため、2月9日となる。
政和7年2月10日 石勇、宋江の実家に泊まる
石勇は宋江の名声を慕って彼の実家を訪れたが、宋江は逃走中で合うことができず、弟の宋清から所在地を聞かされるとともに紹介状を手渡された。
第35回で宋江と石勇が酒場で遭遇した際、「小人在彼只住的一夜」と語っている。この場面は後述の2月11日にあたる。そのため、2月10日に石勇は宋江の実家を訪れて一泊し、翌日に宋江らと遭遇したことになる。
政和7年2月11日 宋江と燕順、酒場で石勇と出会う
宋江は一行が大所帯となったため、燕順とともに先行して梁山泊に事情を知らせることにした。しかし、晌午(昼ごろ)に途中で立ち寄った酒場で石勇と出会い、彼から手渡された宋清からの手紙で父の死を知らされたため、1人で故郷に帰ることにした。残された燕順と石勇は宿を取り、翌日に報告することにした。
一方、宋江はその日の申牌(16時)ころには実家に戻り、皇太子が即位して恩赦が出されたため、宋江を呼び戻すために父が嘘をついていたことを知った。宋江は、そのまま実家に滞在したが、一更(午後6時から午後8時半)には宋江の帰郷を知った趙能と趙得が家を包囲し、宋江は捕縛された。
第35回の地の文に「兩日」とある。2月9日より「2日が過ぎ」たことになるため、2月11日の出来事と考えられる。
政和7年2月12日 時文彬、宋江を取り調べる
鄆城県の知県の時文彬は、五更(4時)より連行された宋江を取り調べた。宋江は梁山泊と内通していた事実を伏せたうえで閻婆惜殺しを認めたために投獄されたが、恩赦が出ていることと時文彬自身が宋江に好意を持っていたため、手厚く遇された。
一方、燕順と石勇は辰牌时分(8時)に一行に合流して事情を話した。一行は宋江を欠いたまま旅を続け、その日のうちに梁山泊に到着、見張りの林冲に事情を話し、梁山泊に迎え入れられた。宋江側の行動については、第36回の地の文に「次早(翌日早朝)」とあり、2月11日の「次早」であるため、2月12日の出来事ということになる。梁山泊側も同様に第36回の地の文に「次日」とある。
なお、この時点で宋江は閻婆惜殺しだけでなく、生辰綱を強奪した晁蓋の逃走を助けたこと、清風山の山賊に青州への襲撃を指示したこと、秦明を陥れ、彼の家族を死に至らしめるとともに山賊へと身を貶めさせたこと、清風塞襲撃の指揮を執り、劉高の邸宅を襲撃したことなど、閻婆惜殺しが霞むレベルの悪事を繰り返しているわけであるが、これらはうまく隠し通している。しかし、彼がこれらの事件についてどのような感情を抱いてたのかは全く分からない。
特に山賊の仲間に引き込むために秦明を陥れつつ、自分は恩赦の機会があれば即座に山賊から足を洗うということについて、秦明に対して何か思うところはなかったのかということについてはぜひ知りたいところであるが、それを察する情報すら全くない。このような描写不足を繰り返すことにより、宋江の異常性が際立ってくる。
政和7年2月13日 晁蓋、清風山からの一行を受け入れる
辰牌时分(8時)に呉用が一行の元を訪れ、晁蓋の元に案内した。一行はそれぞれが誓いを立てて梁山泊の一因となり、宴が開かれた。その途中、花栄は飛んでいる雁の群れの中から1羽を射抜き、晁蓋らを驚嘆させた。第35回の地の文に「第二日」とある。「第一日」は2月12日であるため、2月13日の出来事ということになる。
政和7年2月14日 梁山泊、序列の再編成を行う
宴の後、梁山泊では清風山からの一行を加えた序列の再編成が行われた。この時点では花栄の序列は秦明よりも高く、黄信は阮氏3兄弟よりも上位であった。第35回の地の文に「次日」とある。2月13日の「次日」であるため、2月14日の出来事ということになる。
政和7年4月12日 宋江、江州路に流刑となる
宋江は60日の拘留期間が終わり、鄆城県から済州に送られて判決を受けることになった。判決は杖刑20杖と江州路への流刑と決まった。父の宋太公が賄賂を使い、過ごしやすい地に流されるように配慮したのである。
判決が出たその日のうちに宋江と護送の役人である張千と李万は済州を出発した。その日の夕暮れ、一行は宿で進路について相談し、梁山泊を避けて間道を通ることにした。
第36回の地の文に「待六十日限滿」とある。2月12日から60日が過ぎたということであるため、2ヶ月後の4月12日ということになる。
政和7年4月13日 宋江、梁山泊に迎えられる
宋江たちは、五更(午前3時から5時あたり)に宿を出た後、梁山泊を避けて間道を通った。しかし、梁山泊では宋江の身柄を確保すべく四方に網を張っていたため、劉唐に道を遮られ、梁山泊へと招待された。晁蓋は一行を歓待し、宋江には梁山泊に留まるように勧めたが、宋江は父の言いつけを守り、江州路に行くことを選んだ。第36回の地の文に「次日」とある。4月12日の「次日」であるため、4月13日となる。
政和7年4月14日 宋江、梁山泊を出る
宋江は晁蓋らに歓待された翌日には梁山泊を出て江州路に向かうことにした。その際、呉用から江州路の院長である戴宗の話を聞かされ、彼に当てた手紙を受け取った。第36回の地の文に「次日」とある。4月13日の「次日」であるため、4月14日となる。
政和7年4月下旬 宋江、掲陽嶺に到着する
宋江らは旅を続けて掲陽嶺に到着した。途上の李立が経営する酒屋に立ち寄り、毒を盛られて殺されかけたが、李俊に救われて一命をとりとめた。第36回の地の文に「半月之上」とある。4月14日よりおよそ半月後ということなので4月29日前後ということになる。
政和7年5月上旬 宋江、江州路に到着、牢城の懲役囚となる
宋江らは李立の酒場での騒動の「次日」に李立の家で李俊らの歓待を受け、「數日」間李俊の家に滞在した。その日のうちに掲陽鎮に到着、薛永と穆春のトラブルに巻き込まれ、知らずに穆春の家に宿を取ったが、穆春が帰ってきたため夜間に逃亡する。
宋江らは張横の渡し船で川を越えようとするが、実は盗賊であった張横に命を取られかかる。そこにやってきた李俊のとりなしで和解、追いついた穆春と兄の穆弘の兄弟も李俊の仲裁で矛を収めた。この頃に五更(午前3時から午前5時)となっており、「天色晚了(夜が明けた)」ことが分かる。
その日は薛永も招いて穆弘の家で歓待を受け、「了三日(3日間)」穆弘の家に滞在、「次日」に宋江らは出立し、おそらくその日のうちに江州路の牢城に到着、引き渡しを終えたものと思われる。 これまでの日数を合わせると1日、数日、1日、3日、1日となり、8日程度が経過したものと推測される。4月下旬からの出来事とすれば、5月上旬に牢城に到着したことになる。
なお、第39回で宋江が叛意を表す詩を書きつけ、黄文丙と蔡得章が宋江の身柄を調べた際の描写で「五月」に収容されたことが分かるため、ここでも時系列は一致している。
政和7年5月下旬 宋江、戴宗と出会う
宋江は牢役人たちに賄賂をばらまいて彼らの敬意を買ったが、戴宗にだけは賄賂を贈らなかった。そのため、戴宗が乗り込んできたが、宋江は戴宗と呉用からの手紙を渡して意気投合した。
この日のうちに宋江は李逵と出会い、李逵は魚河岸で張順と決闘し、その後は宋江、戴宗、李逵、張順の4人で酒を酌み交わしている。第36回の地の文に「了半月之間」とある。宋江が江州路に到着した5月上旬から半月後ということであるため、5月下旬の出来事であると考えられる。
政和7年6月上旬 宋江、叛詩を記し、捕らえられる
宋江が戴宗らと宴を開いた「次日」、張順は宋江に魚を届けに来たが、宋江は腹を下して休養中であった。その「次日」には戴宗と李逵が見舞いに来た。
「了五七日」して体調が回復した宋江は、「了一日」してから戴宗、李逵、張順のもとに返礼に行こうとしたが、戴宗は留守、李逵は住所不定であったため、張順の家に赴く途中で潯陽楼に立ち寄り酒を飲んだ。この時、店の壁に詩を落書きしたが、「他時若遂凌雲志、敢笑黃巢不丈夫(要約すると『志を遂げたならば、黄巣ですら未熟と笑おう』)」と最後に書きつけ、そのうえで自分の名前も記した。
翌日に目覚めた宋江は「昨日」の酒の酔いで気分が悪く、その日は寝ていた。しかし、同日に潯陽楼に立ち寄った黄文炳は宋江の詩を見つけると、明確な叛意の表れとしてメモを取り、「次日」に蔡得章に報告した。蔡得章はただちに戴宗を通じて宋江を捕らえようとしたが、戴宗は先んじて宋江に事情を明かし、狂人のふりをしてやり過ごすように勧めた。
しかし、黄文炳は偽装を見破り、宋江を捕らえて拷問にかけた結果、詩を記したことを白状したため、蔡京に事情を知らせて指示を仰ぐことにした。日数の経過をまとめると、1日、1日、約6日、1日、1日となり、およそ10日の間の事件ということになる。直前の時系列が5月下旬であるため、合わせると6月上旬の出来事と考えるのが妥当である。
また、蔡得章が戴宗を使者に選んだ際、「慶賀我父親六月十五日生辰。日期將近」と言っていることから、この段階で6月15日の少し前であることが分かり、この点でも時系列は一致する。さらに、その少し前の蔡得章と黄文炳のやり取りで黄文炳が戴宗を使者として推薦した際、「只消旬日、可以往回」と言っている。「旬日」は10日であり、10日で往来できるということであるため、この時は6月10日以前であると考えられる。
ちなみに、宋江の詩であるが、唐の反逆者で結局は失敗した黄巣の名前を出し、そのうえで彼の上を行こうとする意志を示していることは、何も考えずに読んでも分かる。つまり、黄文炳のこじつけや悪意的な解釈で叛意を引き出したというのではなく、純粋に野心を書き記しているということである。これは、宋江が常日頃から宋への忠義を明らかにし、帰順を願っているという設定とも矛盾しており、なおさら訳が分からない。
ついでに言うと、この事件には歴史的な元ネタがあるように思われる。哲宗の治世の初期、宣仁皇后の垂簾聴政時代に旧法派が主導権を握っていた際、新法派の蔡確は地方官に左遷させられたことを嘆いて詩を記した。それは唐の則天武后時代、彼女に反発して地方に飛ばされた官吏に共感するものであったため、旧法派の呉処厚が宣仁皇后を則天武后になぞらえたものとして注進、結果として蔡確は気候の悪い南方の新州への流刑に処され、流刑先で病死したというものである。
政和7年6月中旬 梁山泊、蔡京の偽手紙を作る
「次日早辰」、蔡得章は戴宗を呼び、東京の蔡京の元に誕生日の贈り物を届けるように命じられた。戴宗はその日のうちに出立、夕暮れには宿を取った。その「次日」までは何事もなく先に進むことができた。
しかし、次の「次日」、つまり3日目には朱貴の酒場に立ち寄り、痺れ酒に引っかかった。ちなみに、ここで「六月初旬」と時期が明らかにされており、計算上の時期とも一致する。朱貴は戴宗に荷物を探り、蔡京にあてた手紙を読んで宋江の危機を知ると、戴宗を解包して事情を聞いた。この後、戴宗は梁山泊に登って晁蓋らに状況を説明し、呉用が策を立てた。
「次日」、戴宗は呉用の策に従って蕭譲と金大堅を呼び出し、梁山泊に拉致した。「次日」、前日に連れ出された蕭譲と金大堅の家族が梁山泊に到着した。この日のうちに蕭譲と金大堅は蔡京の偽手紙を作り、それを携えた戴宗は江州に戻った。
日数を合計すると、3日、1日、1日となり、およそ5日の出来事となる。6月上旬から5日経過したということであるため、およそ6月中旬の出来事であると考えられる。
以下は余談である。戴宗は江州から梁山泊まで3日で到着したことになる。そのうえで蔡京の偽手紙を作るまでに2日を要しているため、再び3日で江州に戻ったとすると8日かかったことになる。これは黄文炳の見立ての10日よりも少し早いが、一応想定内であると言える。
これに基づけば、戴宗は6月中旬から8日かけ、6月下旬には江州に戻ったことになる。しかし、実際に戴宗が江州に戻ったのは後述のように7月11日である。6月上旬から1ヶ月ほどかかっている計算になるが、これについて本文では特に何も語っていない。
政和7年7月11日 戴宗、江州に戻り偽手紙を提出する
梁山泊製の偽手紙を持ち帰った戴宗は、まず宋江に会って事情を説明した後、蔡得章に偽手紙を提出した。しかし、呉用の不安通り黄文炳が手紙の不備を見破ったため、翌日に問いただすことにした。後述の通り、7月15日を基準とすると、この日の「次日」が7月12日となるため、この日は7月11日ということになる。ただし、前述のように、戻るまでの時間が不自然に空きすぎているという描写的な問題がある。
政和7年7月12日 蔡得章、戴宗を捕らえる
先日に黄文炳が梁山泊製の偽手紙を見破ったことにより、蔡得章は酒場で飲んでいた戴宗を連行して詰問した。ここでボロが出たため、拷問にかけたところ、戴宗は梁山泊に偽手紙を押しつけられたと嘘をついたが、蔡得章らは彼が梁山泊と通じていると見抜き、宋江ともども処刑することに決めた。この日の「次日」が後述の通り7月13日であるため、この日は7月12日ということになる。
ちなみに、蔡得章が戴宗を詰問するシーンで張幹辦の名が出ていることに注目したい。彼は第74回で実際に登場し、梁山泊に対する招安の使者の1人となるが、強硬な態度が裏目に出て任務に失敗している。
政和7年7月13日 蔡得章、宋江と戴宗の処刑の日程を決める
蔡得章は宋江と戴宗を翌日に処刑するつもりであったが、翌日は国家の忌日、その翌日の7月15日は中元節、さらに翌日は国家の景命に当たることから処刑ができず、処刑は4日後(原文では当日を1日目として5日後)に引き伸ばされることになった。
第40回の地の文に「後日又是七月十五日中元之節」とある。「後日」は明後日であることから、7月15日の一昨日ということになり、7月13日の出来事であることが分かる。
政和7年7月18日 梁山泊軍、江州を襲撃し、宋江らを救出する
宋江と戴宗が処刑される当日、午時三刻(14時ごろ)に処刑が執行される寸前、見物客に扮した梁山泊軍が処刑場を襲撃した。さらに、それとは別に李逵が官民を問わない虐殺を行い、一帯が大混乱に陥ったのに乗じて梁山泊軍は宋江らを救出、同じく救出に向かっていた李俊らとも合流した。
梁山泊軍約90人とと李俊ら約40人を合わせた145人は、追撃に向かった江州の兵約6000人を撃退した。後に侯健の語るところによると、この一連の騒動で民間人を含む約500人の死者が出たという。
その後、一同は船で掲陽鎮に移り、穆大公の家で休養を取った。この時、宋江が黄文炳への恨みを露わにしたため、一同は彼の住む無為軍への襲撃を画策、薛永は案内役を探すために旅立った。第40回の地の文に「直至五日後」とある。前述の7月13日からの「五日後」であるため、7月18日ということになる。
政和7年7月19日 黄文炳、江州で蔡得章と今後の対策を協議する
7月18日に梁山泊軍が江州を襲撃した際、黄文炳は自宅の無為軍にいたようである。そのため、知らせを受けると江州に出向き、蔡得章と今後のことを協議した。第41回の地の文に「昨夜」とある。後述の7月20日の「昨夜」であるため、7月19日の出来事ということになる。
政和7年7月20日 宋江、無為軍襲撃の手配を整える
襲撃準備中の宋江のところに薛永が戻り、黄文炳の下で働いている侯健を引き合わせた。侯健が無為軍の地勢を説明すると、宋江は各員に指示を出し、その日の初更(20時)に無為軍の沿岸に到着、二更(22時)には城壁を乗り越えるための準備を終えた。第41回の地の文に「了兩日」とある。7月18日の2日後ということであるため、7月20日の事件ということになる。
なお、第41回の地の文に基づくと、この日は「七月盡」、つまり7月30日である。しかし、それだと時系列がおかしくなるため、ここでは計算上の時系列を採用した。
政和7年7月20日 宋江、無為軍を襲撃し、黄文炳を捕らえて食す
三更二點(0時半)、宋江は合図を出して無為軍を襲撃させた。梁山泊軍は黄文炳の邸宅を襲撃、別居していた兄の黄文燁を除く一族50人弱を惨殺し、財貨を略奪した。
この時、黄文炳自身は江州におり、自宅が燃えているのを知らされると帰宅しようとしたが、その途中で李俊と張順らに捕らえられ、穆大公の家にいた宋江の元に引き出された。黄文炳は李逵によって惨殺され、その遺体は無為軍を襲撃した梁山泊軍の食糧とされた。
第41回で宋江が無為軍襲撃の作戦を説明した際、「來日三更二點為期、且聽門外放起帶鈴鵓鴿」と言っている。これは前述の7月20日の出来事であり、0時半である三更二點であれば既に翌日になっているため、7月21日の出来事であるということになる。
なお、この時に黄文炳の肉を食した人物は30人におよぶ。第41回の冒頭で紹介された宋江と戴宗、梁山泊から応援に駆け付けた17人と李俊ら9人に李逵と侯健を合わせた30人である。この中には李逵や人肉酒場を開いていた李立、宋江を食べようとした燕順、王英、鄭天寿らはともかく、花栄と黄信といった元軍人、宋江、戴宗ら吏僚、晁蓋、穆弘、穆春ら元富農も含まれている。この時に梁山泊の頭領で人肉を口にしなかったのは、梁山泊に残っていた呉用、公孫勝、林冲、秦明、金大堅、蕭譲ら6人である。
政和7年7月24日 黄門山の山賊団、梁山泊軍を出迎える
梁山泊へ帰還する途中の晁蓋らが黄門山を通りかかると、黄門山の山賊である欧鵬らが出迎え、一行を歓待した。第41回の地の文に「在路行了三日」とある。7月20日から3日目ということであるため、7月23日の出来事とということになる。
政和7年7月25日 黄門山の山賊団、梁山泊に合流する
黄門山の山賊たちは、宋江の勧めで梁山泊に合流することとなり、黄門山の拠点を捨てて宋江らに従った。第41回の地の文に「次日」とある。7月24日の「次日」であるため、7月25日の出来事ということになる。
政和7年9月下旬 王押司の二周忌を営む
潘巧雲の前夫である王押司の二周忌が来た。石秀は二周忌の準備を手伝ったが、法要に来た裴如海と潘巧雲の親しげな様子を見て察するところがあった。第44回の地の文に「秋殘冬到」とある。太陰暦では9月までが秋で10月から冬になるため、9月下旬であるということになる。
なお、「秋殘冬到」の前の箇所に「過了兩個月有餘」とある。つまり、2ヶ月が過ぎて9月下旬になったということである。前述の7月25日から2ヶ月が過ぎて9月下旬になったとすれば、時系列は一致しているように見える。
実際には7月25日より黄門山から梁山泊への移動、宋江による父の保護、李逵の里帰りなどの出来事による日数の経過があるが、これらはまだ誤差の範疇である。問題となるのは、そこからさらに公孫勝の里帰りがあり、そこから100日以上後に帰ってこない公孫勝を呼び戻すために戴宗が遣わされ、その途上で戴宗と楊雄、石秀の出会いがあり、そのうえで2ヶ月が経って9月下旬になったということである。
つまり、7月下旬から半年近く経っているため、本来ならば翌年の政和8年1月下旬以降になっていなければならないのであるが、実際には2ヶ月後の9月下旬にしかなっていないということである。公孫勝の話がなければ時系列は一致するため、このエピソードを後から挿入したにもかかわらず、時系列の整理を忘れていたのではないかと思われる。ともあれ、以降の時系列からすると、ここは9月下旬であることが前提となるため、ここでは9月下旬の方を採用する。
政和6年10月下旬 石秀、胡頭陀の行動に疑念を抱く
裴如海は胡頭陀に楊雄の出入りを見張らせ、彼が不在の時に潘巧雲と密通を重ねた。石秀は潘巧雲らの関係が怪しいとは思っていたものの決定的な証拠を見いだせずにいたが、胡頭陀の動きがおかしいことに気付き、彼を探ることにした。第45回の地の文に「將近一月有餘」とある。前述の9月下旬から1ヶ月ということであるため、10月下旬の出来事であるということになる。
政和6年11月中旬 石秀、潘巧雲の浮気を突き止め、楊雄に報告する
石秀は楊雄が留守の間に間男が家から出るのを見届けた。証拠をつかんだ石秀は楊雄に一件を話し、2人で翌日に現場を取り押さえる計画を立てた。しかし、酒に酔った楊雄が口を滑らせたことで計画は露見した。
第45回の地の文に「十一月中旬之日」とある。