2月中旬 梁山泊軍、華州を偵察する
 
宋江らは華州襲撃を計画して捕らえられた史進を救出するため、初更(19時前後)に華州の様子を偵察した。しかし、守りが堅固であったため、いったん少華山に引き返した。第59回の地の文に「二月中旬」とある。
 
 
 5月下旬 盧俊義、泰安州へと旅立つ
 
大名府の豪商盧俊義は、呉用の扮した易者に騙され、厄払いのために泰安州へと旅立つことにした。ちなみに、泰安州は金以降の地名で宋当時は泰州であった。

この個所の時系列については、実際に旅に出た当日ではなく、梁山泊に拘束された盧俊義が解放された際に解説されている。その原文は「是五月的話、不覺在梁山泊早過了兩個多月、但見、金風淅淅、玉露泠泠、又早是中秋節近」であり、旅に出たのが5月であることは確実である。

その後の文章については、要するに「5月から2か月ほどを経て8月15日近くになった」と書いてある。単純に考えれば5月から2か月を経ても7月にしかならず、計算が合わないため、5月下旬に盧俊義は北京を出立したものと解釈した。
 
 6月上旬 李固、北京に戻る 
 
盧俊義は梁山泊を通りかかったところで捕らえられた。彼に従って旅に出た頭管の李固は、呉用から盧俊義が梁山泊に加わったことを言い含められ、北京に戻った。

これは呉用の嘘であったが、それを信じた李固は、盧俊義を告発するとともに密通していた彼の妻の賈氏を娶り、異議を唱えた燕青を追放した。第62回、大名府に戻った盧俊義が燕青と再会した際、燕青が「自從主人去後、不過半月」と言っている。盧俊義が旅立った5月下旬から半月弱後ということであるため、6月上旬の出来事であると考えられる。
 
 8月中旬 盧俊義、宋江に帰宅を願い出る
 
盧俊義は梁山泊を通りかかった際に捕らえられ、拘束状態にあったが、2か月を経て宋江に帰宅を懇願し、ようやく認められた。第62回の地の文に「中秋節近」とある。「中秋」は8月15日であるため、その「近」となれば8月中旬ということになる。
 
 8月下旬 盧俊義、大名府に戻る
 
盧俊義は「中秋節近」の「次日」に梁山泊を出た。その後、「行了旬日」して大名府の近郊に着いたが、、すでに日が暮れていて城内に入ることができなかったため、近くの宿屋で一夜を明かした。いずれも第62回の描写である。「旬日」は10日のことであり、8月中旬から10日後であれば8月下旬であると考えられる。
 
 
 9月下旬 盧俊義、沙門島に流刑となる
  
大名府の自宅に戻った盧俊義は、李固の告発によって逮捕された。李固は彼を処刑するために賄賂をばらまく一方、梁山泊は柴進を遣わして助命工作を行った。その結果、梁世傑は妥協案として盧俊義を沙門島への流刑に処した。

李固は護送役の役人を買収して盧俊義の殺害を依頼したが、彼らは燕青によって殺され、盧俊義の身柄も奪還された。第62回の地の文に「晚秋」とある。旧暦の秋の末ということであるため、9月下旬であると考えられる。