本編の年表 嘉祐3(1058)年 政和2(1112)年 政和3(1113)年 政和4(1114)年 政和5(1115)年 政和6(1116)年 政和7(1117)年 重和元(1118)年 宣和元(1119)年 宣和2(1120)年 宣和3(1121)年 宣和4(1122)年 宣和5(1123)年(120回) 宣和5(1123)年 宣和6(1124)年
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宣和元年は『水滸伝』の59回から65回あたりに相当する。前半期は史進らの梁山泊入り、後半期は盧俊義を巡る一連のやり取りが主題となる。呼延灼との戦いから梁山泊入りは前年冬から本年度2月までの出来事、2月中旬から5月下旬までの間に樊瑞との戦いと梁山泊入りがあり、第一次曾頭市戦の敗北によって晁蓋が戦死しているが、時系列を特定できる情報がないため、年表には入れていない。
時系列 干支 西暦 回数 出来事 2月中旬 3月下旬 59 梁山泊軍、華州を偵察する 5月下旬 6月下旬 62 盧俊義、泰安州へと旅立つ 6月下旬 7月下旬 62 李固、大名府に戻る 8月中旬 9月中旬 62 盧俊義、宋江に帰宅を願い出る 8月下旬 9月下旬 62 盧俊義、大名府に戻る 9月下旬 10月下旬 62 盧俊義、沙門島に流刑となる 12月下旬 1月下旬 65 張順、揚子江で張旺に襲われる 年内 105 王慶の乱勃発 年内 宋史 鄆州を東平府に改称する
2月中旬 梁山泊軍、華州を偵察する
宋江らは華州襲撃を計画して捕らえられた史進を救出するため、初更(19時前後)に華州の様子を偵察した。しかし、守りが堅固であったため、いったん少華山に引き返した。第59回の地の文に「二月中旬」とある。
5月下旬 盧俊義、泰安州へと旅立つ
大名府の豪商盧俊義は、呉用の扮した易者に騙され、厄払いのために泰安州へと旅立つことにした。第62回で盧俊義が梁山泊から解放された際の地の文に「是五月的話、不覺在梁山泊早過了兩個多月、但見、金風淅淅、玉露泠泠、又早是中秋節近」とある。
要するに「5月から2か月ほどを経て8月15日近くになった」ということであるが、単純に考えれば5月から2か月を経ても7月にしかならず、計算が合わないため、5月下旬に盧俊義は北京を出立したものと解釈した。ちなみに、泰安州は金以降の地名で宋当時は泰州であった。
6月上旬 李固、大名府に戻る
盧俊義は梁山泊を通りかかったところで捕らえられた。彼に従って旅に出た頭管の李固は、呉用から盧俊義が梁山泊に加わったことを言い含められ、大名府に戻った。呉用の嘘を信じた李固は、盧俊義を告発するとともに密通していた彼の妻の賈氏を娶り、異議を唱えた燕青を追放した。
第62回で大名府に戻った盧俊義が燕青と再会した際、燕青が「自從主人去後、不過半月」と言っている。盧俊義が旅立った5月下旬から半月弱後ということであるため、6月上旬の出来事であると考えられる。
8月中旬 盧俊義、宋江に帰宅を願い出る
盧俊義は梁山泊を通りかかった際に捕らえられ、幽閉されていた。2か月を経て宋江に帰宅を懇願し、ようやく認められた。第62回の地の文に「中秋節近」とある。「中秋」は8月15日であるため、その「近」となれば8月中旬ということになる。
8月下旬 盧俊義、大名府に戻る
盧俊義は「中秋節近」の「次日」に梁山泊を出た。その後、「行了旬日」して大名府の近郊に着いたが、すでに日が暮れていて城内に入ることができなかったため、近くの宿屋で一夜を明かした。いずれも第62回の描写である。「旬日」は10日のことであり、8月中旬から10日後であれば8月下旬であると考えられる。
9月下旬 盧俊義、沙門島に流刑となる
大名府の自宅に戻った盧俊義は、李固の告発によって逮捕された。李固は彼を処刑するために賄賂をばらまいたが、梁山泊もまた柴進を遣わして助命工作を行った。その結果、梁世傑は妥協案として盧俊義を沙門島への流刑に処した。
李固は護送役の役人を買収して盧俊義の殺害を依頼したが、彼らは燕青によって殺され、盧俊義の身柄も奪還された。第62回の地の文に「晚秋」とある。旧暦の秋の末ということであるため、9月下旬であると考えられる。
12月下旬 張順、揚子江で張旺に襲われる
病で重体となった宋江を救うため、張順は建康府にいる安道全の助力を得ようとした。揚子江までたどり着いたが、渡し守の張旺は強盗だった。張順は機転を利かせて縛られたまま水中に投げ落とさせたが、得意の水泳術により水中で縄を切って脱出した。第65回の地の分に「冬盡」とある。
年内 王慶の乱勃発
王慶は廖立を殺して房山の山賊団を乗っ取ると房州の内乱に乗じて城内に侵攻、房州を制圧した。120回本の第105回に「自宣和元年作亂以來」とある。実際には、本文内の描写からでは、何をもって「作亂」とするのかは確定できない。ここでは一応、根城を築いて明確に国家に叛逆した時点とした。
年内 鄆州を東平府に改称する
鄆州は梁山泊のある済州の北部にあたる。鄆州としては祝家荘などの所在地として梁山泊の襲撃を受けている。東平府としては晁蓋死後の首領を決めるため梁山泊に攻め込まれている。なお、この時には宣和2(1120)年になっているため整合性は取れている。