本編の年表 嘉祐3(1058)年 政和2(1112)年 政和3(1113)年 政和4(1114)年 政和5(1115)年 政和6(1116)年 政和7(1117)年 重和元(1118)年 宣和元(1119)年 宣和2(1120)年 宣和3(1121)年 宣和4(1122)年 宣和5(1123)年(120回) 宣和5(1123)年 宣和6(1124)年
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政和2(1112)年は第2回に収まる。ほぼ王進の行動が中心となっている。
時系列 干支 西暦 回数 出来事 1月29日 壬辰 2月28日 2 高俅、殿師府太尉に着任する 2月1日 戊子 2月29日 2 王進、開封府から逃走する 3月 2 王進、史家荘に宿を求める 6月3日 壬辰 6月28日 24 王婆の茶店で最後に泡茶が売れる 9月 2 王進親子、史家村を出立する 年内 44 楊林と鄧飛、盗賊団を解散する
1月29日 高俅、殿師府太尉に着任する
殿師府太尉となった高俅は、吉日を選んで着任式を行った。当日、教頭の王進が病欠したことを咎めて呼び出したが、かつての私怨から彼を罰しようとした。周囲のとりなしもあってその場は収まったが、報復を恐れた王進は、母を連れて逃走する決意を固めた。
逃走にあたっては、禁軍から派遣されている2人の牌軍(従卒)が障害と見なされた。これに対して王進は、翌日に郊外の嶽廟(道教の寺院)へと出向き、健康回復の祈願をすると嘘をつき、牌軍の1人の張に下準備をするように命じた。
『宋史』の21巻(本紀21)によると、政和7年1月29日(1117年2月14日)に殿前都指揮使の高俅が太尉となったという記述がある。これが元ネタであると思われるため、年度を『水滸伝』に合わせつつ、月日はそのままとした。
『水滸伝』の時系列をたどった場合、最初に時系列を特定できる描写が登場するのは、第2回で史進が李吉から少華山の山賊のことを聞いた「六月中旬(6月中旬)」である。これは史太公が死去してから「了三四個月日(3、4ヶ月前)」のことであるため、史太公は2月から3月ころに死去したことになる。史太公が死去したのは王進親子が立ち去ってから「不到半载之间(半年足らず)」であるため、王進親子は前年の8月から9月ころに立ち去ったと考えられる。
そして、王進が史進に武芸の稽古をしたのも「半年之上」であるため、2月から3月の間より稽古をはじめたことになる。最後に、王進親子が史家荘にたどり着いたのが開封府を出てから「在路上一月有余(1ヶ月)」であるため、1月から2月の間に開封府を出たことになり、これは1月29日に合致するため、史実と『水滸伝』の双方から時系列を特定することができる。
2月1日 王進、開封府から逃走する
先んじて牌軍の張を遠ざけた王進は、残った李に張の手伝いをするように命じて嶽廟に向かわせた。こうして邪魔者がいなくなったため、王進親子は開封府から逃走した。一方、張と李は準備を整え、巳牌(9時から11時の間)まで待っていたが、王進が来ないため、いったん帰宅した。しかし、すでに王進親子は逃走した後であったため、高俅に一件を報告した。高俅は激怒し、王進を指名手配したが、とくに張と李の失態を咎めることはしなかった。
第2回に「等到五更、天色未明」とある。「午前4時を過ぎて空が白みはじめた」ということである。要するに夜が明けたことを意味する。前日は1月29日であり、太陰暦では2月1日が翌日となる。
3月 王進、史家荘に宿を求める
王進親子は延安府を目指して旅を続けた。しかし、途中で母親が倒れたため、史家荘で休養を取ることとなった。その後、王進は里正(村長)の息子の史進に武芸十八般を叩きこむことになる。第2回の地の文に王進が開封府を出てから「在路上一月有余」とある。上述の通り、これは2月1日の出来事であるため、それより1ヶ月ほど後ということは、3月ごろということになる。
6月3日 王婆の茶店で最後に泡茶が売れる
王婆は紫石街で茶店を経営していたが繁盛せず、この日に泡茶が1杯売れた後はまったく客が来なかった。そのため、仲人や合いびきなどの副業を生活の糧としていた。第24回、西門慶との会話中に王婆は「三年前六月初三」と言っている。これは政和5(1115)年の話であるため、その3年前は政和2(1112)年ということになる。なお、この日は雪が降っていたらしい。
9月 王進親子、史家村を出立する
王進は史進に武芸十八般を伝授した後、当初の予定通り延安府に旅立つこととした。第2回によると、これより「不到半載之間」の後に史大公が病に倒れ、「數日不起」の後に死去している。史大公が死去した時期は翌年の3月ごろと推定できるため、その半年前であれば、政和2年9月ごろということになる。
年内 楊林と鄧飛、盗賊団を解散する
楊林と鄧飛は盗賊団を結成していたが、楊林は盗賊団を解散して1人で行動するようになった。第44回、楊林が鄧飛と再会した際に「一別五年」と言っている。この時は政和7年であるため、彼らが分かれたのは政和2年内ということになる。