宣和2(1120)年は第62回から第71回あたりに相当する。主な出来事としては、対北京大名府戦の決着と108星の集結がある。1月16日から3月1日までの間に第二次曾頭市戦が行われているが、時系列を特定できる情報がないため、年表に入れていない。

特に注目するべき点としては、第71回で108星が集結し、その職務を定めた際の布告において、この年が宣和2(1120)年であることが明らかにされていることが挙げられる。これは引首で「嘉祐3(1058)年」という年代の特定が登場して以来、つまり本編において初めて年代が特定される描写である。これ以降は年代を特定する描写が増えていくものの、これ以前の時系列を定める基準になるという点において、非常に重要な情報である。

史実では「方臘の乱」が本年に勃発している。『水滸伝』では特に時系列に関する描写はないため、史実と同じように反乱が広がったものと解釈した。なお、史実では12月末より童貫が詔を受けて反乱鎮圧の兵を編成している。しかし、『水滸伝』の童貫は、翌年に宋江鎮圧の兵を編成しており、矛盾が生じる。よってここでは採用しないものとした。
 
 
 時系列  干支  西暦  回数  出来事
 1月上旬    2月上旬  66  呉用、梁山泊の頭領を大名府に忍び込ませる
 1月13日   甲寅  2月13日  66  大名府に侵入した梁山泊頭領が顔を合わせる
 1月14日  乙卯  2月14日  66  梁世傑、李成に巡視を命じる
 1月15日  丙辰  2月15日  66  上元節。梁山泊軍、大名府を襲撃する
 1月16日  丁巳  2月16日   66  梁山泊軍、大名府から撤収する
 3月1日  辛丑  3月31日  69  梁山泊軍、東昌府および東平府に侵攻する
 3月28日  戊辰  4月27日  69  史進、東昌府に捕らえられる
 3月29日  己巳  4月28日  69  史進、東平府の獄中から蜂起する
 3月30日  庚午  4月29日  69  梁山泊軍、東平府を襲撃する
 4月15日  乙酉  5月14日  71  公孫勝、忠義堂にて羅天大醮の祭事を執り行う
 4月21日  辛卯  5月20日  71  108星の名を記した石碑が落ちてくる
 4月22日  壬辰  5月21日  71  石碑を解読し、108星の序列を定める
 9月9日  丁未  10月3日  71  梁山泊にて「菊花之會」が開かれる
 9月10日  戊申  10月4日  71  李逵、先日の無礼を宋江に詫びる
 10月9日  丙子  11月1日  皇宋通鑑  方臘、里正の方有常を殺す
 10月30日  丁酉  11月22日  皇宋通鑑  方臘の乱勃発
 11月1日  戊戌  11月23日  皇宋通鑑  方臘、元号を定める
 11月22日   巳未  12月14日  皇宋十朝  方臘、息杭にて官軍を破る
 11月28日  乙丑  12月20日  皇宋通鑑  睦州知州張徽、後任に曾孝蘊を推挙する
 11月29日  丙寅  12月21日  皇宋通鑑  方臘、青溪県を制圧する
 12月2日  戊辰  12月23日  皇宋通鑑  方臘、睦州を制圧する
 12月7日  庚寅  12月27日  青溪寇軌  曾孝蘊、青州知州に赴任し宋江に備える
 12月18日  甲申  12月24日  皇宋十朝  鞠嗣復、歙州休寧県を守り抜く
 12月20日  丙戊  1月10日  皇宋十朝  方臘、歙州を制圧する
 12月22日  戊子  1月12日  皇宋十朝  方臘、宣州に侵攻、寧国県を制圧する
 12月24日  庚寅  1月14日  皇宋十朝  方臘、杭州富陽県を制圧する
 12月29日  乙未  1月13日  青溪寇軌  方臘、杭州を制圧する
 12月下旬    1月中旬  71  宋江、職人から燈籠を買い取る
 年内      (98)  宋氏の遺体が発見される
   
 
 1月上旬 呉用、梁山泊の頭領を大名府に忍び込ませる
 
呉用は1月15日の上元節の賑わいに乗じて大名府を襲撃する計画を立てた。その前段階として頭領たちに変装をさせて大名府に忍び込ませた。第66回の地の文に「正月初頭」とある。
 
 
 1月13日 大名府に侵入した梁山泊頭領が顔を合わせる
 
呉用の命を受けた頭領たちは様々な姿に変装して別個に大名府へと侵入したが、そのうちの数名がうっかりと鉢合わせしてしまった。第66回の地の文に「正月十三日」とある。
 
 
 1月14日 梁世傑、李成に巡視を命じる
 
梁世傑は上元節の梁山泊の襲撃を警戒し、兵馬都監の李成に大名府内の巡視を命じた。この時、すでに府内には多数の梁山泊の頭領が入り込んでいたが、李成は見つけることができなかった。第66回の地の文に「十四日」とある。
 
 
 1月15日 上元節。山泊軍、大名府を襲撃する
 
上元節当日、梁山泊軍の本隊が大名府を襲撃、忍び込んでいた頭領たちと呼応して城内に侵入した。梁山泊軍は市内で略奪と殺戮を行いつつ、捕らえられていた石秀を救出、盧俊義の身柄を確保するだけでなく、李固と賈氏を拉致した。第66回の地の文に「正月十五日上元佳節」とある。
 
 
 1月16日 梁山泊軍、大名府から撤収する
 
夜が明けると、大名府市内に侵入した梁山泊軍の頭領は撤収した。この襲撃により、王太守とその一族、梁世傑本人と蔡夫人を除く一族や兵馬都監の李成と聞達の家族など民間人5千人、兵士3万人が死傷した。第66回の地の文に「天色大明」とある。1月15日から夜が明けたということであるため、1月16日の出来事ということになる。
 
 
 3月1日 梁山泊軍、東昌府および東平府に侵攻する
 
梁山泊では新たな統領を決めるため、宋江が東平府、盧俊義が東昌府を攻めることとなった。先に攻略に成功した者が統領として晁蓋の後を継ぐのである。第69回の地の文に「三月初一日」とある。
 
 
 3月28日 史進、東昌府に捕らえられる
 
史進は東平府に侵入し、梁山泊軍の襲撃に呼応して城内を混乱させようとした。そのための根拠地として、なじみの娼妓の李瑞蘭がいる瓦子に向かい、李瑞蘭に計画を打ち明けた。李瑞蘭は虔婆(支配人)に報告し、虔婆は東平府に訴え出たため、史進は逮捕された。

呉用は宋江から話を聞いて作戦の失敗を悟り、顧大嫂を東平府に潜り込ませて史進と連絡を取ろうとした。そのために梁山泊軍は汶上県を襲撃して住民を東平府に追いやり、その中に顧大嫂を紛れ込ませた。

第69回の地の文によると、この日の「次日」が3月29日であるため、この日は3月28日ということになる。
  
 
 3月29日 史進、東平府の獄中から蜂起する
 
史進は顧大嫂から「月盡(月末)」に梁山泊軍が総攻撃を仕掛けることを聞かされた。そのため、3月29日の夜に獄中で蜂起し、囚人を開放して梁山泊軍の攻撃を待った。しかし、宣和2(1120)年3月は旧暦の大の月にあたり、30日が月末であったため、梁山泊軍の攻撃はなかった。史進は牢獄を占拠して梁山泊軍の到着をを待つことになった。

第69回の地の文に「到二十九」とある。ちなみに、宣和2(1120)年3月が旧暦の大の月に当たることは事実である。『水滸伝 虚構の中の史実』では、万歴20(1592)年に元ネタとなった事件があることを取り上げ、『水滸伝』が書かれた時代を特定する手掛かりとしている。166ページ参照。

この場面、梁山泊軍は3月1日に出兵し、3月末に至るまで東平府には攻撃を仕掛けず、3月下旬の数日間で勝負をつけるという不自然な描写になっている。時系列を盛り込んだ描写を後付けにした結果なのかもしれない。
 
 
 3月30日 梁山泊軍、東平府を襲撃する
 
梁山泊軍は迎撃に出た董平の部隊を破り、東平府を攻撃した。董平は夜襲を仕掛けたが失敗して捕らえられ、梁山泊軍に降伏した。董平が東平府に帰還したように見せかけて城門を開かせると、梁山泊軍は東平府に侵入した。この襲撃により、太守の程万里の一族は皆殺しにされ、娘は董平に拉致された。また、救出された史進は李瑞蘭の瓦子に報復を行い、老若男女を問わずに皆殺しにした。

第69回によると、3月29日の夜に史進の蜂起があり、「四更(午前1時から3時の間)」に董平が最初に出撃している。つまり、史進の蜂起の翌日になったということであるため、3月30日ということになる。
 

 
 4月15日 公孫勝、忠義堂にて羅天大醮の祭事を執り行う

宋江は、108人の頭領が集まったのをきっかけとして7日7晩に渡る羅天大醮の祭事を執り行うことにした。 当日は公孫勝が49人の道士を従えて儀式を進めた。第71回の地の文に「四月十五日」とある。
 
 
 4月21日 108星の名を記した石碑が落ちてくる
 
羅天大醮の祭事は最終日の7日目を迎えた。その3更(23時ころ)、石板が天から落下した。宋江は石板を掘り起こさせ、文字が刻まれているのを確認した。第71回の地の文に「第七日」とある。1日目が4月15日であるため、そこから数えて7日目であれば4月21日ということになる。
 
 
 4月22日 石碑を解読し、108星の序列を定める
 
先日に落下した石板には古代文字が刻まれていた。羅天大醮の祭事に参加した道士の何玄通が文字を解読した結果、石板には梁山泊の108人の頭領の名と宿星が記されていた。第71回の地の文に「平明」とある。羅天大醮の祭事の7日目からさらに「夜が明けた」ということであるため、4月21日の翌日である4月22日に相当する。

ちなみに、この後の頭領の役割を布告する場面では「宣和二年四月初一日」という記述がある。この年が宣和2年であることが分かる重要な描写であるが、4月1日というのは4月15日から羅天大醮の祭事をはじめたことからするとありえないことである。

これは120回本の記述に基づくものであり、100回本では「四月吉旦」と記載されている。「吉旦」は単に「吉日」という意味でしかないが、「旦」には「元旦」などのように「最初」の意味があるため、120回本の作者が誤訳した可能性も考えられる。
 
 
 9月9日 梁山泊にて「菊花之會」が開かれる
 
重陽節の日に宋江は宴を開いたが、「招安」という言葉を巡って李逵や武松が不快感を露わにしたため気まずい雰囲気となった。第71回の地の文に「重陽節」とある。これは旧暦の9月9日に相当する。
 
 
 9月10日 李逵、先日の無礼を宋江に詫びる
 
李逵は他の頭領たちの執り成しもあり、先日の暴言を宋江に謝罪したため、宋江も彼を許した。第71回の地の文に「次日」とある。9月9日の「次日」であるため、9月10日となる。

この場面では、宋江が処罰を考えていると知らされた李逵が「他要殺我時、便由他殺了罷」と言っている。「他」は3人称であるが、ここでは宋江のことであるため、「宋江兄貴に俺を殺す理由があるなら、拒んだりはしないさ」くらいの意味になる。最終回の伏線かもしれない。
 
 
 10月9日 方臘、里正の方有常を殺す
 
方臘は里正(村長)の方有常を殺し、財貨を略奪すると、拠点の幫源洞に帰還した。『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、「丙子」とある。さらに間もなく、方臘は周囲に攻撃を仕掛けている。
 
 
 10月30日 方臘の乱勃発
 
方臘は朱勔の花石綱の取り立てによって民衆の怨嗟が渦巻いているのに乗じ、徒党を組んで蜂起した。『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻に「十月丁酉」とある。『皇宋通鑑長編紀事本末』では、、まず「十月丁酉」に方臘が蜂起したことを記した後、「是月丙子」に方臘が方有常を殺したという記事が続く。流れ的にも記事の順序的にも蜂起してから村長を殺したとする方が自然であるが、干支に基づくならば、順序は逆となる。干支に誤りがある気もするが、ここは記述に従う。

『水滸伝』では、第90(第110回)で方臘が反乱を起こすまでの経緯が記されている。ここでは具体的な時系列は明らかにされていないが、第72回で柴進が開封府の睿思殿に忍び込んだ時には、宋江らとともに反逆者として方臘の名が記されている。この場面は宣和3年1月12日にあたるため、これ以前に方臘は放棄していたことになる。これは史実の時系列とは矛盾がないため、『水滸伝』でも史実と同様の経過をたどっているものと判断した。

なお、『青溪寇軌』によると、方臘は睦州青溪県竭村出身である。一方、『水滸伝』の第90回(120回本の第110回)では歙州(安徽省)出身としている。これは『桂林方氏宗譜』などの方一族を顕彰する目的で記された書籍を参考にしたものと思われる。これら一連の書籍においては、反逆者である方臘を一族に加えず、歙州からの流れ者を方一族が雇用したという体裁をとっている。また、『水滸伝』の方臘はもともと「樵夫」であったが、実際に青渓県は漆や楮、杉などの木材資源が豊富であり、史実の方臘はそれによって財を成したという。
 
 
 11月1日 方臘、元号を定める
 
各種の史料を総合すると、11月1日に方臘は「聖公」を称し、文武百官を任命した。さらに独自の暦を定め、宣和2年11月を永楽元年1月と改元した。軍事的には「紅巾」を頂点とする6階級の軍事制度を定めた。彼らは武装せず、妖術が使えると吹聴して略奪を働く一方、捕らえた民衆を兵士に組み込むことで軍事力を増強した。

『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻には、具体的な日付と元号のことが記されている。『青溪寇軌』からは元号と聖公を称したこと、軍事制度や装備と略奪のことが分かる。『宋史』の468巻(列伝227)には『青溪寇軌』の内容に加えて文武百官を任命したことが分かるが、いずれも具体的な日付は記載がない。『水滸伝』の第90回(110回)には、方臘が王を称して文武百官を任命したことが記されている。
 
 
 11月22日 方臘、息杭にて官軍を破る

方臘軍は息杭において両浙路の路分都監である蔡遵、顏坦らの率いる5千人の軍勢を撃破、蔡遵らは戦死した。日付は『皇宋十朝綱要』による。他の資料では、この戦いと11月29日の青溪県の陥落を同一視しているものが多い。
 
 
 11月28日 睦州知州張徽、後任に曾孝蘊を推挙する
 
張徽は睦州の知州として方臘の乱の鎮圧にあたっていたが、もはや治安の回復が不可能であると判断した。そのため、反乱を鎮圧できる後任として青州の知州となる予定であった曾孝蘊を推挙した。『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻に記述がある。

なお、『皇宋通鑑長編紀事本末』では「曾友蘊」と記している。「曾孝蘊」は『青溪寇軌』の表記である。「曾孝蘊」の表記を採用したのは、『宋會要輯稿』の「食貨八」、「崇寧二年」の項に『四朝史』の引用として「曾孝蘊」の略歴が記されているためである。
 
 
 11月29日 方臘、息杭にて宋軍を破り、青溪県を制圧する
 
方臘軍は青溪県を制圧した。日付は『青溪寇軌』および『通鑑長編紀事本末』による。『宋會要輯稿』では21日としているが、本項では『通鑑長編紀事本末』の11月28日の記事を採用している都合上、そのまま『通鑑長編紀事本末』の記述を参照することとした。


『水滸伝』では、青溪県が方臘の本拠地として最終決戦の場となった。兵力は御林軍3万人を中核としている。睦州に向けて合計2万人の援軍を送り、最終決戦では2万3千人を投入したことから、4万強の兵力を有していたと思われる。宋軍を迎え撃つため、宋江に対して1万3千、盧俊義に対して1万を割り振ったが、盧俊義に対峙した部隊は壊滅、宋江と交戦した部隊も1万まで減少した。残る1万の兵も娘婿の柯引の裏切りで壊滅し、呉は滅亡した。
 
 
 12月2日 方臘、睦州を制圧する
 
方臘軍は2万人の兵で青溪県を含む6つの県を制圧し、睦州を支配下に置いた。官軍の兵士は千人が戦死した。この6県とは、建德県、青溪県、桐廬県、分水県、遂安県、壽昌県のことである。日付は『皇宋十朝綱要』による。『通鑑長編紀事本末』では「戊辰」表記だが2日のことである。『青溪寇軌』では4日、『宋會要輯稿』では1日とする。

『水滸伝』では、杭州奪還後に宋江の本隊が攻略を担当した。睦州の中に青溪県があるという扱いではなく、同列の拠点として扱われている。おそらくは州都の建徳県のことであると思われる。右丞相の祖士遠が守りを固めるが、兵数は不明。1万人を杭州に援軍として送り出したことが確認できるほか、合計2万人が青溪県から援軍として送られている。援軍の壊滅によって戦闘力を喪失し、そのまま睦州は陥落した。

また、桐廬県は睦州の前線基地として登場する。天然の要害である烏竜嶺と麓には水塞があり、杭州からの敗残兵が4人の水塞の将軍と5千の兵とともに守りを固めた。宋軍は大きな被害を出しても陥落させることができず、先に睦州を落として孤立化させることで攻略に成功した。
  
 
 12月7日 曾孝蘊、青州知州に赴任し宋江に備える
 
歙州の守りについていた曾孝蘊は、勅命を受けて青州の知州に赴任し、当時青州一帯を荒らしていた宋江に備えた。『青溪寇軌』に「初七日」とある。史実の方臘と盗賊の宋江の両方に関与した人物がいるという非常に興味深い情報である。さらに両者の連動が危惧されていたことを想定することも難しくないが、『水滸伝』では採用されていない。

この情報は11月28日の記事と連動している。こちらは『皇宋通鑑長編紀事本末』に基づいており、『青溪寇軌』を根拠とする本項とは情報源が異なる。双方の情報が正しいとすれば、曾孝蘊は青州の知州となる予定であったが、方臘の乱を収められる人物と見なされて歙州知州に任命された。赴任前に睦州が陥落したため、隣接する歙州の守りに着いた。その間、宋江の動きが活発化したため、改めて青州知州として任地に向かうことになったと考えられる。

『水滸伝』の設定的には、梁山泊軍が青州を襲撃し、知州の募容彦達を殺害したのが重和元(1118)年冬から宣和元(1119)年春の間である。その直後に曾孝蘊が後任となったと仮定すると、2年間の空白が不自然となる。よって後任者では事態を収められないと判断され、その後任として青州を治めることになったと考えるのが妥当なところである。
 
 
 12月18日 鞠嗣復、歙州休寧県を守り抜く
 
方臘軍は歙州休寧県の役所に押し入り、知県の鞠嗣復に降伏を迫った。鞠嗣復は負傷していたが、面罵してはねつけた。叛徒の中に休寧県民がおり、鞠嗣復の善政を知っていたため、兵を引き上げた。鞠嗣復は城門を修理して守りを固め、自ら城を出て救援を求めようとしたが、傷のために間もなく死去した。『皇宋十朝綱要』の11巻および『皇宋通鑑長編紀事本末』に「甲申」とある。
 
 
 12月20日 方臘、歙州を制圧する
 
方臘の乱は睦州に続いて歙州を制圧した。その際、宋の将軍の郭師中が戦死した。日付は『皇宋十朝綱要』の11巻に「丙戊」とある。なお、『青溪寇軌』は13日、『皇宋通鑑長編紀事本末』では12月甲申(1日)、『宋史』、『宋會要輯稿』では12月と史料によって日付のぶれがある。『皇宋十朝綱要』によると、12月24日に方臘軍が杭州富陽県を制圧しており、本項でもこの情報を採用しているため、ここは『皇宋十朝綱要』の情報に従う。

歙州は現在の安徽省に相当する。歙県、休寧県、祁門県、婺源県、績溪県、黟県の6県からなる。休寧県の事情は上記の通り。当時の人口は約16万人。『水滸伝』では、杭州攻略後、第96(116)回より盧俊義が3万人の兵を率いて攻略を担当した。方臘軍は方垕が2万の兵で守りを固めたが、第98(118)回で陥落した。
 
 
 12月22日 方臘、宣州に侵攻、寧国県を制圧する
 
方臘軍は歙州の北にある宣州に侵攻、寧国県を制圧して宣州攻略の足掛かりとした。、『皇宋通鑑長編紀事本末』に「戊子」とある。『水滸伝』では、第92(112)回で宋軍が潤州を攻略した後、盧俊義が宣州の攻略を担当した。
 
  
 12月24日 方臘、杭州富陽県を制圧する
 
方臘軍は杭州に侵攻し、富陽県を制圧した。『皇宋十朝綱要』の11巻に歙州制圧後の「後四日」とある。『皇宋十朝綱要』によると、12月20日に歙州は陥落しているため、その4日後であれば12月24日ということになる。

富陽県は現在の浙江省杭州市の富陽区にあたる。『水滸伝』では、第115回で富陽県から杭州に兵糧を輸送していた船団が官軍に拿捕された。官軍は輸送船団に偽装して杭州に侵入し、内部から陥落させた。第96(116)回では石宝ら杭州から逃れた敗残兵が富陽県に立てこもった。睦州に侵攻する宋江も富陽県を通るかたちとなったため、一戦を交えたが、方臘軍は敗れて睦州の桐廬県に退いた。
 
 
 12月29日 方臘、杭州を制圧する
 
方臘軍は東進して杭州を制圧した。知州の趙霆は逃走し、節制の陳建、廉訪使者の趙約らが殺された。方臘の兵は6日間に渡って略奪を行い、官民を問わず多数の死者が出た。情勢は『青溪寇軌』による。『皇宋通鑑長編紀事本末』でも時系列は一致、趙約が殺されたことも記されている。

杭州は現在の浙江省に相当し、その名は今も市に残っている。当時の人口は約29万人である。州治の錢塘県および仁和県、餘杭県、臨安県、富陽県、於潛県、新城県、鹽官県、昌化県の9県から構成されている。『水滸伝』において一貫して杭州と呼ばれる拠点は、錢塘県のことであると思われる。

『水滸伝』では蘇州と秀州を奪還した宋江が第94(114)回から攻略を担当した。方臘軍は方天定と28人の将軍が守りを固めた。動員兵力は先に投降した秀州の段愷が7万人と宋江に説明しているが、実際には9万人以上であった。しかし、兵を3軍3万人に分けて各地に投入したため、官軍によって各個撃破され、後退して守りを固めた。その守りは手堅く、、杭州の攻略は長期化、宋江は盧俊義の部隊と合流した後、第96(116)回で陥落させた。

その後、宋江は睦州の攻略に向かい、盧俊義は歙州を担当した盧俊義は昱嶺関に向かい、5千人の兵士で守りを固める龐万春に苦戦することになる。『明史』の44巻(志20)によると、昱嶺関は昌化県にある。
 
 
 12月下旬 宋江、職人から燈籠を買い取る
 
莱州から開封府に向かう途中の職人の一団が梁山泊に拘束された。彼らは来年の元宵節で使う燈籠を運んでいたのである。宋江は彼らから燈籠を1つ買い取ると、開封府に出向いて元宵節を見物しようと思い立った。第71回の地の文に「漸近歲終」とある。「そろそろ年の終わりが近づいた」ということなので12月下旬であると思われる。
 
 
 年内 宋氏の遺体が発見される
 
宋氏は夫の仇申とともに父の葬儀に向かう途中、田虎率いる盗賊団の襲撃を受けた。その結果、仇申は殺され、宋氏は拉致されたが、石室山まで来たところで身を投げた。残された娘の瓊瑛は、主管の葉清が養育した。

後に田虎の部下となった葉清が石室山に石材を取りに来たところ、白い石が宋氏の遺体に変わり、再び白い石に戻るという怪異があった。葉清の部下の中に当時田虎と一緒にいた者がおり、宋氏が身を投げるまでの顛末を話した。葉清は主人の妻であったことを明かすわけにはいかず、知り合いの娘ということにして埋葬を命じ、真相を瓊瑛に明かした。

120回本の第98回に宋氏が身を投げてから「今已三年有餘」とある。検証の結果、これは政和7(1117)年の事件であることが判明しているため、それより3年後の出来事であれば、宣和2(1120)年の事件ということになる。