宣和2(1120)年解説
1月上旬 呉用、梁山泊の頭領を大名府に忍び込ませる
呉用は1月15日の上元節の賑わいに乗じて大名府を襲撃する計画を立てた。その前段階として頭領たちに変装をさせて大名府に忍び込ませた。第66回の地の文に「正月初頭」とある。
1月13日 大名府に侵入した梁山泊頭領が顔を合わせる
呉用の命を受けた頭領たちは様々な姿に変装して別個に大名府へと侵入したが、そのうちの数名がうっかりと鉢合わせしてしまった。第66回の地の文に「正月十三日」とある。
1月14日 梁世傑、李成に巡視を命じる
梁世傑は上元節の梁山泊の襲撃を警戒し、兵馬都監の李成に大名府内の巡視を命じた。この時、すでに府内には多数の梁山泊の頭領が入り込んでいたが、李成は見つけることができなかった。第66回の地の文に「十四日」とある。
1月15日 梁山泊軍、大名府を襲撃する
上元節当日、梁山泊軍の本隊が大名府を襲撃、忍び込んでいた頭領たちと呼応して城内に侵入した。梁山泊軍は市内で略奪と殺戮を行いつつ、捕らえられていた石秀を救出、盧俊義の身柄を確保するだけでなく、李固と賈氏を拉致した。第66回の地の文に「正月十五日上元佳節」とある。
1月16日 梁山泊軍、大名府から撤収する
夜が明けると、大名府市内に侵入した梁山泊軍の頭領は撤収した。この襲撃により、王太守とその一族、梁世傑本人と蔡夫人を除く一族や兵馬都監の李成と聞達の家族など民間人5千人、兵士3万人が死傷した。第66回の地の文に「天色大明」とある。1月15日から夜が明けたということであるため、1月16日の出来事ということになる。
4月15日 公孫勝、忠義堂にて羅天大醮の祭事を執り行う
宋江は、108人の頭領が集まったのをきっかけに7日7晩に渡る羅天大醮の祭事を執り行うことにした。 当日は公孫勝が49人の道士を従えて儀式を進めた。第71回の地の文に「四月十五日」とある。
4月21日 108星の名を記した石碑が落ちてくる
羅天大醮の祭事は最終日の7日目を迎えた。その3更(23時ころ)、石板が天から落下した。宋江は石板を掘り起こさせ、文字が刻まれているのを確認した。第71回の地の文に「第七日」とある。1日目が4月15日であるため、そこから数えて7日目であれば4月21日ということになる。
4月22日 石碑を解読し、108星の序列を定める
石板に記された文字は古代文字であったが、羅天大醮の祭事に参加した道士の何玄通が読み方を知っていた。何玄通が文字を解読した結果、石板には梁山泊の108人の頭領の名と宿星が記されていた。
第71回の地の文に「平明」とある。羅天大醮の祭事の7日目からさらに「夜が明けた」ということであるため、4月21日の翌日である4月22日に相当すると思われる。
ちなみに、この後の頭領の役割を布告するシーンでは「宣和二年四月初一日」という記述がある。この年が宣和2年であることが分かる重要な描写であるが、4月1日というのは4月15日から羅天大醮の祭事をはじめたことからするとありえないことである。
これは120回本の記述に基づくものであり、100回本では「四月吉旦」と記載されている。「吉旦」は単に「吉日」という意味でしかないが、「旦」には「元旦」などのように「最初」の意味があるため、120回本の作者が誤訳した可能性も考えられる。
9月9日 梁山泊にて「菊花之會」が開かれる
重陽節の日に宋江は宴を開いたが、「招安」という言葉を巡って李逵や武松が不快感を露わにしたため気まずい雰囲気となった。第71回の地の文に「重陽節」とある。これは旧暦の9月9日に相当する。
9月10日 李逵、先日の無礼を宋江に詫びる
李逵は他の頭領たちの執り成しもあり、先日の暴言を宋江に謝罪したため、宋江も彼を許した。第71回の地の文に「次日」とある。9月9日の「次日」であるため、9月10日となる。
このシーンでは、宋江が処罰を考えていると知らされた李逵が「他要殺我時、便由他殺了罷」と言っている。「他」は3人称であるが、ここでは宋江のことであるため、「宋江兄貴が俺を殺すというのなら、拒んだりはしないさ」くらいの意味になる。最終回の伏線かもしれない。
10月 方臘の乱勃発
方臘は朱勔の花石綱の取り立てによって民衆の怨嗟が渦巻いているのに乗じ、聖公を称して諸官を任命するとともに、「永楽」という独自の年号を制定して公然と宋に反旗を翻した。
『水滸伝』では、第90回(120回本の第110回)で方臘が反乱を起こすまでの経緯が記されているが、具体的な時系列は明らかにされていない。しかし、第72回で柴進が開封府の睿思殿に忍び込んだ時には、宋江らとともに反逆者として方臘の名が記されており、この時点で彼が反乱を起こしていることが分かる。
この場面は宣和3(1121)年にあたる。史実では、『宋史』の第468巻、「列傳第227」の「宦者3」、つまりは童貫の列伝に「宣和二年十月、起為亂」とあり、『水滸伝』の時系列と矛盾していないため、時系列を史実に合わせることとした。
なお、『水滸伝』の第90回(120回本の第110回)によると、方臘は「歙州(安徽省)」出身であるが、史実では「睦州(浙江省)」、厳密には州内の青渓県の出身である。『水滸伝』では、青渓県に方臘の宮殿が造営されている。また、『水滸伝』の方臘はもともと「樵夫」であったが、実際に青渓県は漆や楮、杉などの木材資源が豊富であり、史実の方臘はそれによって財を成したという。
11月21日 方臘、青溪県を攻略する
『宋史』の第468巻、「列傳第227」の「宦者3」によると、方臘は10日足らずで数万の兵を集め、6つの階級を巾の色で区別(ちなみに最上は「紅巾」)し、妖術使いであることを吹聴して官軍と戦った。『宋会要輯稿』の「兵10」、「討叛4」、「方臘」の項によると、方臘の反乱軍は官軍の将軍2人と5000の兵を殺し、11月21日までに故郷の青渓県を支配下に置いている。
12月下旬 宋江、職人から燈籠を買い取る
莱州から開封府に向かう途中の職人の一団が梁山泊に拘束された。彼らは来年の元宵節で使う燈籠を運んでいたのである。宋江は彼らから燈籠を1つ買い取ると、開封府に出向いて元宵節を見物しようと思い立った。第71回の地の文に「漸近歲終」とある。「そろそろ年の終わりが近づいた」ということなので12月下旬であると思われる。