宣和5(1123)年は第90回から第100回に相当する。120回本では第100回から第120回までである。宋軍に編入された旧梁山泊軍と方臘率いる呉軍との戦いが主題となる。史実の鎮圧作戦と比較した場合、秀州攻略以後、杭州を奪還し、睦州と歙州に兵を分けて方臘の本拠地である青渓県を包囲した後、その宮殿である幫源洞を攻撃するという戦略は完全に一致している。

さらに第99(119)回では、史書として『宋鑑』の名を上げて方臘軍の損害を描写しており、少なくとも方臘戦においては、『水滸伝』の作者が史料を読み込んでいたことは確実であると考えらえる。

ただし、『水滸伝』では秀州以前の戦いである潤州、常州、蘇州、宣州、湖州などの攻防戦は史実には見られない。つまり、『水滸伝』で独自追加した要素ということであるが、方臘の乱の鎮圧が史実よりも2年遅れた結果、呉の占領地が拡大したことを想定したためであると思われる。

また、これにより、『水滸伝』の時系列は史実よりも遅れが生じている。『水滸伝』で時系列が確認できるのは、4月下旬までに杭州を奪還して勅使を出迎えていることであるが、史実では2月18日に杭州を奪還していることから、この遅れを2ヶ月と解釈した。これにより、史実と重複する『水滸伝』の出来事は、すべて2ヶ月遅らせたものを記載している。
 
 
 時系列  干支  西暦  回数  出来事
 1月1日  乙卯  1月29日  90(110)  宋江と盧俊義、徽宗に拝謁する
 1月2日  丙辰  1月30日  90(110)  宋江、宿元景らに挨拶回りをする
 1月3日  丁巳  1月31日  90(110)  蔡京、旧梁山泊軍に待機を命じる
 1月4日  戊午  2月1日  90(110)  宋江、一同に忠義を説く
 1月7日  辛酉  2月4日  91(111)  呉成、方貌と面会するため、長江を渡る
 1月15日  己巳  2月12日  90(110)  燕青と楽和が市内の見物を相談する
 1月16日  庚午  2月13日  90(110)  燕青と李逵が開封府の上元節を見物する
 1月17日  辛未  2月14日  90(110)  宋江、宿元景に方臘討伐を申し出る
 1月18日  壬申  2月15日  90(110)  宋江、方臘討伐を命じられる
 1月19日  癸酉  2月16日  90(110)  宋軍、開封府を出立する
 1月下旬    2月下旬  91(111)  宋軍、瓜州と焦山を偵察する
 4月13日  丙申  5月10日  95(115)  「第三次杭州の戦い」、「独松嶺の戦い」
 4月14日  丁酉  5月11日  95(115)  「奉口鎮の戦い」
 4月15日  戊戌  5月12日  95(115)  「第四次杭州の戦い」
 4月16日  己亥  5月13日  95(115)  「第五次杭州の戦い」
 4月17日  庚子  5月14日   95(115)  「第六次杭州の戦い」、」「第七次杭州の戦い」
 4月18日  辛丑  5月15日  95(115)  宋軍、杭州を占領、論功行賞を行う
 4月下旬    5月下旬  96(116)  宋江、勅使を出迎える
 5月10日  壬戌  6月5日  96(116)  宋軍、睦州と歙州に侵攻する
 5月17日  己巳  6月12日  96(116)  「富陽県の戦い」。宋軍、富陽県を奪回する
 5月18日  庚午  6月13日  96(116)  「桐盧県の戦い」。宋軍、桐盧県を奪回する
 5月19日  辛未  6月14日  96(116)  「第一次烏龍嶺の戦い」。呉軍、宋軍に勝利
 5月20日  壬申  6月15日  96(116)  解珍と解宝、烏龍嶺に侵入する
 5月21日  癸酉  6月16日  96(116)  「第二次烏龍嶺の戦い」
 6月15日  丙申  7月9日  97(117)  童貫、杭州に到着する
 6月16日  丁酉  7月10日  97(117)  宋江、烏龍嶺の地勢を探る
 6月17日  戊戌  7月11日  97(117)  「第三次烏竜嶺の戦い」、「第一次睦州の戦い」
 6月18日  己亥  7月12日  97(117)  「第二次睦州の戦い」、「第四次烏龍嶺の戦い」
 6月19日  庚子  7月13日  98(118)  「青溪県の戦い」。宋軍、呉軍に勝利
 6月20日  辛丑  6月15日  98(118)  宋軍、幫源洞を包囲
 6月24日  乙巳  6月19日  99(119)  「第一次幫源洞の戦い」。呉軍、宋軍に勝利
 6月25日  丙午  6月20日  99(119)  「第二次幫源洞の戦い」。呉滅亡
 6月26日  丁未  7月21日  99(119)  魯智深、方臘を捕らえる
 6月27日  戊申  7月21日  宋史  鄭居中死去
 8月15日  乙未  9月6日  99(119)  魯智深死去
 9月6日  丙辰  10月6日  金史  金の太宗即位
 9月上旬    10月中旬  99(119)  宋江らに帰還命令が下る
 9月23日  癸酉  10月11日  99(119)  宋江、開封府に戻る
 9月26日  戊子  10月17日  99(119)  宋江、徽宗に拝謁する
 9月27日  丁丑  10月18日  99(119)  中書省、祝宴を設ける
 9月28日  戊寅  10月19日  99(119)  枢密院、祝宴を設ける
 10月24日  癸卯  11月13日  99(119)  方臘、凌遅刑に処される
 
 
 1月1日 宋江と盧俊義、徽宗に拝謁する
 
蔡京の画策により、元旦の拝賀には宋江と盧俊義のみが許され、残りの頭領は待機を余儀なくされた。帰還後、宋江は頭領たちと改めて酒宴を開いた。第90回の地の文に「正旦節」とある。
 
 
 1月2日 宋江、宿元景らに挨拶回りをする
 
宋江は伴を連れて宿元景らのもとを訪れ、年始の挨拶回りをしたが、知らせを受けた蔡京は警戒を強めた。第90回の地の文に「次日」とある。1月1日の翌日であるため、1月2日ということになる。
 
 
 1月3日 蔡京は旧梁山泊軍に待機を命じ、李俊らは不満を抱く
 
蔡京は旧梁山泊軍の将兵が開封府の城内に入ることを禁じ、城外で待機するように命じた。李俊ら水軍の頭領たちが不満を抱いて呉用に相談したため、呉用も宋江に話を切り出したが、宋江は聞く耳を持たなかった。第90回の地の文に「次日」とある。1月2日の翌日であるため、1月2日ということになる。
 
 
 1月4日 宋江、一同に忠義を説く
 
宋江は旧梁山泊の一同を集めると、宋に対する忠義を説いた。頭領たちは宋江の言葉に感服し、二度と不満を抱かないと誓った。第90回の地の文に「次日」とある。1月3日の翌日であるため、1月4日ということになる。
 
 
 1月7日 呉成、方貌と面会するため、長江を渡る
  
揚州の陳将士は、幹人の呉成を潤州の呂師嚢のもとに遣わし、食料と船舶の提供を申し出た。呉成は呂師嚢の命で蘇州の方貌のもとに向かうこととなり、1月7日に長江を越えた。第91回の地の文に「正月初七日」とある。
 
 
 1月15日 燕青と楽和が市内の見物を相談する
  
燕青と楽和は1月15日の上元節の賑わいに紛れて開封府を見物しようと相談した。それに李逵が加わり、3人で出かける約束をした。第90回の地の文に「上元節」とある。上元節は1月15日の祭りである。
 
 
 1月16日 燕青と李逵が開封府の上元節を見物する
  
李逵を避けたい楽和は、燕青には黙ったまま、時遷とともに開封府に入り込んだ。燕青は李逵と一緒に開封府に忍び込んだが、李逵が見世物小屋の講釈に興奮して大声を上げたため、彼を連れて逃げ出した。2人は帰り際に「方臘の乱」のことを知らされ、呉用に報告した。第90回の地の文に「次日」とある。1月15日の翌日であるため、1月16日ということになる。

なお、李逵が興奮した講釈は三国時代の関羽が腕に毒矢を受けた際、骨を削って毒を取り除くという治療を受けたが、麻酔を受けずに平然と碁を打っていたというものである。もちろん、李逵と関羽本人には直接の関連性はないが、第51回で梁山泊に陥れられ、預かっていた子供を李逵に殺された朱仝の異名が関羽にちなんだ「美髯公」であることからすると、何らかの意味があるのかもしれない。
  
 
 1月17日 宋江、宿元景に方臘討伐を申し出る
  
「方臘の乱」のことを知った宋江は、宿元景に反乱鎮圧の先鋒となることを願い出た。宿元景は喜び、徽宗に奏上することを約束した。第90回の地の文に「次日」とある。1月16日の翌日であるため、1月17日ということになる。
  
 
 1月18日 宋江、方臘討伐を命じられる
  
宿元景の働きかけにより、徽宗は宋江に「方臘の乱」の鎮圧を任せ、金大堅と皇甫端に対しては技能を活かすため、開封府に留まるように命じた。第90回の地の文に「次日」とある。1月17日の翌日であるため、1月18日ということになる。
 
 
 1月19日 宋軍、開封府を出立する
  
宋江らは準備を整え、呉に向けて侵攻をはじめた。しかし、その前に朝廷の高官に才能を買われた楽和と蕭讓が開封府に留まることとなり、遠征には参加しなかった。第90回の地の文に「次日」とある。1月18日の翌日であるため、1月19日ということになる。
 
 
 1月下旬 張順と柴進が瓜州、阮小七と石秀が焦山に偵察に向かう
  
呉の領内に侵入した宋軍は、先んじて偵察を行うこととした。第91回の地の文に「初春」とある。これは1月のことであるが、前述の通り、宋軍が開封府を出たのが1月19日であるため、1月20日から1月30日までのいずれかということになる。つまりは1月下旬ということである。
 
 
 4月13日 「第三次杭州の戦い」、「独松嶺の戦い」
 
宋江は戴宗を通じて盧俊義の部隊と連絡を取り、合流しつつあることを把握した。そのため、李逵らに3千人の兵で出迎えるように指示した。李逵らは山中で敗走中の呉軍と遭遇した。張倹と張韜らは引き返そうとしたが、行軍中の盧俊義の部隊を挟み撃ちとなって捕らえられた。

一方、朱仝には5千人の兵士を率いさせて杭州の東門を攻めさせた。呉軍は鄧元覚が5百人の兵士で迎撃したが失敗、後退して城門を閉ざしたため、宋軍も打つ手なく撤収した。続いて宋江自らが北門を攻めたが、こちらも石宝によって食い止められたため、攻撃は失敗に終わった。この戦いにより、呉軍の貝応夔が戦死した。

これらは第95(115)回に記述がある。考察の結果、「次日」は4月14日となったため、当日は4月13日である。これ以前の時系列については「戴宗去了數日」、つまり「戴宗が盧俊義の元に向かってから数日」して宋江のもとに戻ったというあいまいな表現になるため、特定することはできない。

なお、李逵らが張倹らと遭遇した山地については、地名の情報がない。しかし、張倹らは独松関の戦いに敗れて逃走しているため、「独松」の名がついた地名である可能性は高いと考えられる。『宋會要輯稿』の10巻には、叛徒の張琪が「臨安府獨松嶺」に侵攻したという描写がある。臨安府は杭州であり、「獨松嶺」は独松関のある山地の名称であることは間違いないと思われるため、ここは便宜上、李逵らは「獨松嶺」で張倹らと交戦したということにしておく。
 
 
 4月14日 「奉口鎮の戦い」
 
宋江は先日に連行された呉の張倹を蘇州の司令部に後送したが、張韜は独断で惨殺した。次いで盧俊義の部隊を合流中の呼延灼の部隊のもとに送り、合流を急がせることとした。盧俊義の部隊は途上の奉口鎮で呉の司行方の部隊と遭遇した。司行方は徳清県の救援に向かったが、呼延灼に撃退されて撤退する途中だったのである。盧俊義の部隊は司行方の部隊を壊滅させ、司行方も戦死した。

第95(115)回に記述がある。考察の結果、「次日」は4月15日となったため、当日は4月14日である。
 
 
 4月15日 「第四次杭州の戦い」
 
宋江は杭州攻略のために戦力を4分して東西南北の4門に配置、杭州を完全に包囲した。自らは北門の攻略を担当したが、呉軍の石宝と鄧元覚との戦いに敗れて後退した。呉軍は追撃に移ったが、宋軍の花栄と蓁明が左右から挟撃したために撤退した。この戦いにより、宋軍の索超と鄧飛が戦死した。

第95(115)回に記述がある。考察の結果、「次日」は4月16日となったため、当日は4月15日である。
 
 
 4月16日 「第五次杭州の戦い」
 
呉用の作戦により、関勝は杭州の北門を攻撃した。石宝が出陣すると、関勝は退いて石宝の部隊を誘引し、その隙に宋軍は西、南、東の3ヶ所に総攻撃をしかけた。盧俊義の担当する南門の候潮門は開いたままであったため、劉唐が率先して切り込んだ。候潮門の扉は綱で開閉する形式であったため、呉軍が綱を切って扉を落とすと、それがちょうど劉唐に直撃し、劉唐は戦死した。結局、宋軍はいずれの門も突破することができずに後退した。

第95(115)回に記述がある。この日の「次日」が4月17日に当たるため、4月16日の出来事ということになる。
 
 
 4月17日 「第六次杭州の戦い」および「第七次杭州の戦い」
 
宋江は李逵たち歩兵軍に杭州の北門を攻めさせた。石宝率いる騎兵隊が突撃してくると、李逵らは正面から受けて立ち、石宝の部隊を退かせた。宋江は勢いに乗じて北門を攻めたが、先走って城内に入った鮑旭が石宝に切り殺され、城兵の反撃も厳しかったため、撤収を余儀なくされた。

一方、解珍と解宝は、偵察中の途中で杭州に食糧を運び込もうとする船団を見つけると、責任者の袁評事を捕らえて事情を聞き出し、宋江に報告した。宋江と呉用は頭領や兵士を船員に偽装して兵士を城内に送り込むこととした。「二更(22時)」、城内に入り込んだ宋軍の将兵が各所に放火したため、呉軍は混乱状態に陥った。

本項では4月18日を杭州陥落の日と定義した。時系列的には、22時から宋軍が杭州に侵攻し、翌日8時までには確実に占領が完了しているため、翌日を4月18日とすれば、その前日は4月17日ということになる。
 
 
 4月18日 宋軍、杭州を占領、論功行賞を行う
 
宋軍の夜襲を受けた呉軍は手薄な南門から逃げ出したが、方天定は五雲山まで逃れたところで張横に殺された。張横は宋江のもとに出向き、方天定の首級を捧げると、死後に神となった張順が憑依していることを語った。まもなく張順は身体を張横に返し、張横は弟の死を知って昏倒したため、宋江は張横に休憩を取らせた。

「辰已時分(8時)」、宋江は論功行賞を行った。その後、別動隊の水軍を率いていた阮小七が帰還した。彼は率いていた船団が強風にあおられて壊滅、同行していた侯健と段景住が溺死、張横とははぐれてしまったことを報告した。宋江は張横が五雲山にいた理由を理解し、張順を祀った。また、浄茲寺で七昼夜の水陸道場を開催し、杭州の戦いで戦死した将兵の冥福を祈った。

『水滸伝』内の描写は第95(115)回から第96(116)回にある。『皇宋通鑑長編紀事本末』の第141巻によると、史実では宣和3年2月癸未(18日)に王稟が杭州を奪還している。本項では日付を2ヶ月ずらして4月18日とした。これにより、杭州をめぐる攻防戦を中心とする時系列を特定することが可能となる。
 
 
 4月下旬 宋江、勅使を出迎える
  
宋江は七昼夜の水陸道場を終えると、呉の宮殿を焼き払い、物資を分配した。次いで呉用と睦州攻略の計画を練っていたが、劉光世と勅使が来訪したため、出迎えることとした。勅使は徽宗からのねぎらいの言葉を伝え、すべての頭領に恩賞を施したが、すでに戦死していた頭領の分もあったため、宋江は彼らのことを偲んだ。

第96(116)回の地の文に「四月盡間」とある。「盡間」は「あとわずか」ということで4月末ということになる。七昼夜の水陸道場をいつ開いて終えたのかを判断する材料がないため、これ以上の深追いはしない。七昼夜の水陸道場を開いた日は4月23日、勅使を出迎えた日は4月29日までが候補に挙がる。上述の4月18日当日に七昼夜の水陸道場を開いた場合、終わるのは4月24日となる。
 
 
 5月10日 宋軍、睦州と歙州に侵攻する
  
宋江は杭州に駐屯していたが、張叔夜からの出撃要請を受けて睦州と歙州に兵を分けて侵攻することとした。くじ引きの結果、宋江は36人の頭領とともに睦州を攻め、盧俊義は28人の頭領とともに歙州を攻めることとなった。なお、盧俊義は3万人の兵士を率いていることが分かるが、宋江の兵力は不明である。

宋江らが杭州にとどまっていた事情は不明であるが、当時の杭州では疫病が流行っており、梁山泊の頭領のうち張横、穆弘孔明、朱貴、楊林、白勝の6人が感染していた。さらに穆春と朱富の2人が看病に残るような事態となっていたため、進軍したくてもできなかったというのが実情かもしれない。

第97(117)回の地の文に4月下旬に勅使を出迎えてから「早過了數十日」して出陣したとある。そのまま読めば「早くも数十日が過ぎ去った」ということであるが、日本の翻訳では「十数日」としている。

『宋會要輯稿』の「兵10」によると、史実では、3月10日に王稟が杭州を出立している。2ヶ月を足せば5月10日となる。『水滸伝』と照らし合わせると、上述の4月下旬から14日後に出陣したことになるため、「十数日」の要件を満たすことになる。
 
 
 5月17日 「富陽県の戦い」。宋軍、富陽県を奪回する
 
石宝らは杭州の州都から撤退すると杭州の富陽県で守りを固め、睦州からの増援1万人で体制を立て直した。宋江率いる宋軍が押し寄せると、石宝は自ら出撃して迎え撃ったが、水路からの攻撃に気付いた鄧元覚が全軍の撤退を指示、呉軍は総崩れとなって富陽県を放棄し、睦州の桐盧県に後退した。宋江は追撃の手を緩めず、2千人の兵を東西に分け、水軍とともに進軍させた。

『水滸伝』では、第96(116)回で描写されているが、時系列に関する情報はない。『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、3月17日(壬子)に王稟が富陽県を奪回している。一方、『皇宋十朝綱要』の11巻によると、奪還したのは3月21日(丙辰)であるという。

富陽県を奪回した日は、これより4日後までの宋軍の行動を確定するとともに、「二十余日」を経て童貫が杭州に到着するまでの時系列を特定するための手がかりとなる。史実に2ヶ月を加えるかたちで計算するのであれば、5月17日に富陽県を奪回したとすると、5月21日に進軍が停滞し、23日後の6月15日に童貫が杭州に到着する。

4日後の5月21日であれば、それぞれ5月25日、19日となり、「二十余日」の要件を満たすことはできない。よって、ここは『皇宋通鑑長編紀事本末』の3月17日に2ヶ月を加えて5月17日とするのが正解である。
 
 
 5月18日 「桐盧県の戦い」。宋軍、桐盧県を奪回する
 
桐盧県まで後退した呉軍は、体制を立て直す暇もなく宋軍に攻め立てられると、桐盧県を放棄して烏龍嶺に後退した。第96(116)回によると、宋軍が桐盧県を攻撃したのは三更(0時)ごろである。5月17日から攻撃を続けて、そのまま5月18日になったということになる。

『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、史実では王稟が3月23日(戊午)に桐盧県を奪還している。『水滸伝』では、富陽県を落とした翌日に桐盧県を奪還しているが、史実では数日の間があったことになる。ここでは『水滸伝』に時系列を合わせる。
 
 
 5月19日 「第一次烏龍嶺の戦い」。呉軍、宋軍に勝利
 
宋江は李逵らに命じて烏龍嶺の様子を探らせたが、守りは固く、容易には攻められないことが分かった。そのため、水軍を使って水路から侵入することとした。阮小二ら1千人の兵士が100隻の軍船に分乗したが、呉軍は5千人の兵士と500隻の軍船で水路の守りも万全の物としていた。

呉軍は「浙江四龍」の異名を持つ4人の水軍総管がそれぞれ1隻の軍船を出して宋軍を挑発、宋軍を引き付けた後に上陸すると、火をつけた筏を流して宋軍を壊滅させた。この戦いにより、宋軍の水軍を率いていた阮小二は自害し、孟康は戦死した。

第96(116)回によると、「桐盧県の戦い」の「次日」の戦いである。「桐盧県の戦い」を5月18日と定義したため、5月19日であると考えられる。
 
 
 5月20日 解珍と解宝、烏龍嶺に侵入する
 
解珍と解宝は烏龍嶺に侵入し、敵陣を内部から攪乱する作戦を提案、自ら実行役を願い出た。一更(20時)に宋軍の司令部を出ると、二更(22時)烏龍嶺に到着、敵を避けるため、藤や葛を伝って難路を進んだ。

第96(116)回によると、「第一次烏龍嶺の戦い」の「次日」である。本項では「第一次烏龍嶺の戦い」を5月19日と定義したため、5月20日であると考えられる。
 
 
 5月21日 「第二次烏龍嶺の戦い」
 
解珍と解宝は難路を進んでいたが、四更(2時)ごろに武器が植物とこすれ合う音で呉軍に感づかれた。さらに、この日は月明かりがまぶしく、一度見つかると逃げるところがなかったため、2人とも呉軍によって殺された。呉軍は2人の遺体を回収し、さらし者にすることで宋軍を挑発した。

宋江は挑発に乗り、3千人の兵を率いて遺体の回収に向かった。二更(22時)ごろ烏龍嶺に到着、遺体を発見したが、待ち構えていた呉軍に包囲された。しかし、宋江の身を案じた呉用が援軍を派遣、この援軍が呉軍を逆包囲するかたちとなり、宋江は窮地を脱した。この戦いにより、呉軍は王勣と晁中が戦死した。

第96(116)回によると、解珍と解宝が烏龍嶺を進む描写において、二更(22時)から四更(2時)に切り替わっている。「二更」は5月20日の22時であるため、「四更」は5月21日の2時であると判断した。

また、二度の敗北で4人の頭領を失ったためか、宋江は「二十余日」守りを固めた後、杭州に到着した童貫を出迎えている。史実に基づくのであれば、童貫が杭州に到着したのは4月15日であり、それに2ヶ月を加えれば6月15日となる。5月21日からは23日間経過したことになり、「二十余日」の要件を満たすものである。
 
 
 6月15日 童貫、杭州に到着する
  
宋の朝廷では、宋江らをねぎらうために童貫を遣わした。童貫は王稟と趙譚を引き連れて杭州に到着した後、宋江らが兵を二手に分けて進軍中であることを知ると、盧俊義の元には王稟を遣わし、自らは宋江のもとへと向かった。

『水滸伝』の時系列では、第96(116)回において宋江が杭州で勅使を出迎えたのが4月下旬である。その後、睦州に向けて進撃し、富陽県、桐盧県を奪還、烏龍嶺を巡る戦いでは2度の敗北を喫した後、「二十余日」の間侵攻は停滞しており、童貫らを出迎えるのはそれ以降となる。要するに、4月下旬から20日以上が確実に経過した後、童貫が出向いたということである。

『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、史実の童貫は宣和3(1121)年4月15日(己卯)に本隊を引き連れて杭州に駐屯している。「4月下旬から20日以上後に童貫が出向いた」こと、「童貫が杭州に駐屯した」という共通点、「『水滸伝』の方臘の乱は史実の日程から2ヶ月遅れている」という本項の定義を合わせると、この日は6月15日であると特定することができる。

出来事としては大したことではないが、この一件は時系列の特定という点においては非常に重要である。それと言うのも、『水滸伝』では、童貫が杭州に到着した時点では睦州も歙州も奪還できていないが、史実ではすでに奪還されているため、時系列を史実に合わせることができず、別の材料を使って時系列を特定しなければならないためである。そして、童貫の杭州入りという材料こそが時系列を特定する鍵であり、これによって方臘を捕らえるまでの時系列を細かく設定することが可能となる。

なお、「方臘の乱」における童貫は、史実と『水滸伝』で大きく立場が異なる。史実では総指揮官の立場にあるが、『水滸伝』における総司令官は張叔夜であり、童貫は王稟と趙譚を連れた援軍として杭州に到着している。また、王稟も史実では最初から鎮圧に従軍しているが、『水滸伝』では途中からの登場となる。
 
 
 6月16日 宋江、烏龍嶺の地勢を探る
 
烏龍嶺への攻撃を提案する童貫に対し、呉用は先に付近を偵察して地勢を確認するように勧めた。燕順と馬麟が任務にあたり、その日のうちに烏龍嶺の裏道を知る老人を連れてきた。宋江らは老人を案内役として烏龍嶺を攻撃することとした。

第97(117)回によると、童貫が宋江のもとを訪れた「次日」の出来事であるという。本項では、それを6月15日の翌日の6月16日であると定義した。燕順らが帰還するまでの時間については、第97(117)回に「去了一日」とある。「去了」は「行った」を意味し、「1日中出向いていた」ことになるため、当日中の出来事になると考えられる。
 
 
 6月17日 「第三次烏竜嶺の戦い」、「第一次睦州の戦い」
 
宋江は、先日接触した地元の老人を案内役とし、1万人の兵とともに烏竜嶺の裏道を進んだ。
「四更前後(午前2時ごろ)」、2千人の兵で東部の守りを固める伍応星は守り切れないと悟り、独断で睦州に後退した。

宋軍は山頂を包囲し、攻撃をはじめた。山頂の呉の本陣では、守りを固めようとする石宝と睦州の救援に向かおうとする鄧元覚との間で意見が対立していた。鄧元覚は主張を曲げず、夏侯成を連れ5千人の兵を率いて睦州に向かったが、途上の宋軍との戦いで戦死、夏侯成だけが宋軍の包囲を突破して睦州にたどり着いた。

睦州を守る祖士遠は、ただちに夏侯成らを遣わして方臘に救援を求めた。方臘は包道乙、鄭彪率いる1万5千人の部隊を睦州に送ることに決め、夏侯成も従軍した。鄭彪の援軍は、ちょうど宋江が烏竜嶺を攻めあぐね、目標を睦州に切り替えようとしていたところを襲撃するかたちとなった。

宋江は3千騎の騎兵を投入したが、数に勝る呉軍の前に壊滅、次いで自らが5千人の兵を率いて迎撃に当たった。李逵の奮戦によって数の劣勢を覆したが、鄭彪は黒雲を呼んで煙幕を張り、後退した。宋江は黒雲の中で孤立し、混乱していたが、突然現れた卲俊に助けられ、「未牌(12時)」ごろには体制を立て直した。ほぼ同時に鄭彪も再度の攻勢に出たが、再び李逵らに迎撃され、撤退を余儀なくされた。

李逵らは鄭彪を追ったが呉軍は新たに3千人を投入して李逵らを包囲した、一方、宋軍も花栄ら予備軍を投入して李逵らを救出し、両軍は撤収した。この戦いの結果、宋軍は王英、扈三娘、項充、李袞が戦死、武松は左腕を失って後送され、魯智深は行方不明となった。呉軍は魯智深と交戦していた夏侯成が消息を絶った。

戦いの後、呉用が1万人の兵を引き連れて合流した。宋江は呉用に卲俊の霊験を語った。2人は卲俊の手掛かりを探すために山中に入り、彼を祀った廟を見つけた。宋江らは卲俊を祀り、勝利の暁には廟を立て直すと誓った。その日の「半夜(夜半)」、再び卲俊が現れ、翌日中に睦州を攻略できると約束した。

第97(117)回によると、烏龍嶺の地勢に通じた老人を探し出した「次日」の出来事である。本項では、それを6月16日と定義したため、翌日の6月17日とするのが妥当である。
 
 
 6月18日 「第二次睦州の戦い」、「第四次烏竜嶺の戦い」
  
宋江は、卲俊の助言を得て再度睦州を攻撃した。宋軍が南門に攻撃を集中すると、呉軍は鄭彪が兵1万人を率いて迎撃に向かった。しかし、樊瑞と宋江が鄭彪の妖術を抑え、鄭彪を援護していた包道乙も砲撃によって戦死、呉軍は総崩れとなり、宋軍は睦州を奪還した。

一方、烏竜嶺の抑えに残していた宋軍は烏竜嶺から出撃した呉軍の攻撃を受け、苦境に陥っていた。宋江は関勝率いる援軍を派遣して戦況を覆し、童貫らの部隊とともに烏竜嶺を占領した。これによって烏竜嶺の水塞の守りを固めていた呉軍も四散し、宋軍は睦州の確保を確固たるものとした。

この一連の戦いにより、宋軍は烏竜嶺の守りについていた燕順と馬麟が戦死した。一方、呉軍は石宝が自害、殿前太尉の鄭彪、天師の包道乙の他、譚高、伍応星、白欽、景徳が戦死した。右丞相の祖士遠、参政の沈寿、僉書の桓逸は捕らえられ、描写はないが処刑されたものと思われる。水塞から逃走した成貴と謝福は付近の住民によって捕らえられたのちに宋江の私刑で惨殺され、翟源と喬正は消息を絶った。

第97(117)回によると、宋江は「至天明」の後に睦州を攻めている。つまり、夜明け後ということである。6月17日から夜が明けたということなので6月18日となる。なお、『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、史実では王稟が宣和3(1121)3月27日(壬戌)に睦州を奪還している。『水滸伝』の描写と矛盾が生じるため、ここでは採用しない。
 
 
 6月19日 「青溪県の戦い」。宋軍、呉軍に勝利
  
宋軍は睦州と歙州を奪還し、二手から青溪県に迫った。さらに青溪県攻略のため、宋江は李俊らに間者となることを命じ、食料を搭載した船団を出して偽装の投降をさせた。方臘は歙州方面に1万人の兵を出す一方、自らは1万3千人の兵を率いて睦州方面に向かった。

両軍は青溪県の県境で衝突した。緒戦は呉軍の有利に進んでいたが、方臘は別動隊が壊滅したために後退を余儀なくされた。さらに青溪県の城内では李俊らが蜂起したため、青溪県に戻ることもできなくなり、幫源洞に逃れて守りを固めた。宋軍は青溪県内で略奪を行った後、別動隊を撃破した盧俊義の部隊と合流、幫源洞へと向かった。

この一戦で宋軍は秦明、阮小五、杜遷、湯隆、鄒淵、蔡福、李立、孫二娘、郁保四ら9人の頭領を失った。一方、呉軍は左丞相の婁敏中が自害、驃騎上將軍の杜微は逃げ遅れて城内に潜伏していたところを見つかり、惨殺された。その他に92人の官吏が捕らえられ、全員が処刑された。

『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、史実では宣和3(1121)4月19日(癸未)に王稟が青溪県を奪還している。本項では時系列を合わせるため、2ヶ月遅れの6月19日としている。これにより、青溪県を巡る争いの前後の時系列を特定することが可能となる。
  
 
 6月20日 宋軍、幫源洞を包囲
  
宋江は盧俊義と合流し、方臘の籠る幫源洞を包囲したが、決め手に欠けて攻撃に移ることができなかった。第98(118)回では、青溪県を攻略した「次日」の出来事である。本項では、青溪県を攻略した日を6月19日と設定したため、6月20日ということになる。

また、本項では方臘が捕らえられた日を6月26日と定義したが、そこから逆算すると、『水滸伝』で宋軍が攻撃を仕掛けた日は6月24日となる。第98(118)回には、包囲から攻撃まで「數日」経ったと記すだけであり、具体的な日数は分からないが、上記の考察からすると、4日間経過したことになり、「數日」の条件を満たしている。

なお、『水滸伝』の宋軍は、包囲網を形成した後に攻撃を仕掛けているが、『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、史実では包囲網を形成したのと同時に攻撃を仕掛けている。つまり、史実では膠着状態に陥ることなく、スムースに総攻撃へと移行しているのである。
 
 
 6月24日 「第一次幫源洞の戦い」。呉軍、宋軍に勝利
  
宋軍は幫源洞を包囲したが、決め手に欠けて攻め込めずにいた。一方、幫源洞内では柯引が名乗りを上げ、1万の兵を率いて出陣した。柯引は次々と宋軍の諸将を破り、宋軍の陣地を後退させた。方臘は凱旋した柯引を称えたが、柯引の正体は宋軍の柴進であり、その活躍も宋軍との打ち合わせによる八百長であった。

第99(119)回の地の文に「次早(翌日早朝)」とある。この日の翌日は6月25日に当たるため、この日は6月24日となる。『水滸伝』では、数日間の包囲の後に前座として24日の戦いがあり、次いで決戦にあたる25日の戦いが行われている。一方、『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、史実では24日の包囲後に総攻撃が行われ、25日まで戦いが続いている。

『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻には包囲に参加した人物の名前も列挙されており、その中には裨将として宋江の名も見られる。『水滸伝』に登場する人物としては、王稟の名も見えるが、史実の彼は宋江を指揮する立場にあった。

『水滸伝』において王稟の同僚として登場する趙譚の名は史実には見られないが、宋江と同格の裨将として趙明、趙許の名が挙げられている。もしかしたらモデルなのかもしれない。王「渙」という将軍の名も見られる。『水滸伝』の十節度使の1人と混同しそうになるが、あちらは王「煥」である。
 
 
 6月25日 「第二次幫源洞の戦い」。呉滅亡
  
方臘は柯引に兵を委ねて宋との最終決戦に臨んだ。しかし、元より宋の間者であった柯引が宋軍を招き入れたため、呉軍は総崩れとなった。宋軍は幫源洞の宮殿を焼き払い、虐殺と略奪を行ったが、その間に方臘は逃走した。

第99(119)回の魯智深は宋江と再会した際に「夜來望見山前火起、小僧看了一夜、又不知此間山逕路數是何處。今早正見這賊爬過山來」と言っている。夜に火の手が上がるのを見ながら一夜を過ごし、早朝に賊(方臘)を見つけたということである。夜が明けて後述の5月26日になったため、この日は5月25日である。

なお、第99(119)回の地の文に「按『宋鑑』所載、斬殺方臘蠻兵二萬餘級」とある。『宋鑑』によると、方臘の兵士2万人以上が惨殺されたということである。wikipediaによれば、『宋鑑』は『続宋編年資治通鑑』と『続宋中興編年資治通鑑』の総称である。今回各所で引用している『皇宋通鑑長編紀事本末』や『皇宋十朝綱要』は、いずれも『続資治通鑑長編』から宋の時代だけを抜粋したという点では共通している。

『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻には、諸将の功績として首級の数が細かく記載されている。これによると、王稟の部隊は5046人、劉鎮の部隊が5780人を殺し、497人を生け捕りにしている。合わせても2万人には遠く及ばない。
 
 
 6月26日 魯智深、方臘を捕らえる
  
魯智深は「第一次睦州の戦い」」の際、呉軍の夏侯成を追って山中に迷い込んだ。夏侯成を討ち取った後は山中をさまよっていたが、途中で出会った老僧の勧めで草庵に住むことになり、言われるままに来訪者を待った。ある日、遠方に火の手が上がったのを見に行き、帰り際に草庵に向かっていた者を捕らえた。この来訪者は逃走中の方臘であった。魯智深は方臘を追っていた宋軍の兵士と出会って状況を理解し、方臘を連れて宋江と再会した。

『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、史実においても幫源洞が陥落した翌日に山狩りが行われている。史実の方臘は一族や重臣39人とともに幫源山北東の石澗(谷川)に隠れ、杭州に逃れるつもりであったが、その日のうちに捕らえられた。史実では4月26日(庚寅)の出来事であるため、ここでは2ヶ月遅らせて6月26日とした。この時系列の特定により、幫源洞を巡る最終決戦の日付を設定することが可能となる。

また、第97(117)回では、卲俊が「方十三氣數將盡,只在旬日可破」と予言している。「方臘の運気は尽きたので、旬日の内に破ることができます」というような意味である。「旬日」は「10日程度」の意味であるが、この予言が登場した6月18日から数えると、6月26日には8日後となるため、この条件を満たすものとなっている。

『皇宋通鑑長編紀事本末』の141巻によると、史実では、睦州奪還が3月27日、方臘捕縛は4月26日でほぼ1ヶ月かかっている。『水滸伝』では、これを8日でこなしていることになるが、史実を踏まえたうえで予言に合わせた改変を行ったものと考えられる。
 
 
 6月27日 鄭居中死去
  
鄭居中は入朝時に突然体調を崩して帰宅、療養していたが数日後に死亡した。享年は65。『水滸伝』では、第79回に登場する。韓忠彦の食客から取り立てられ、御史大夫を務める。韓忠彦の甥の韓存保に頼られ、宋江の招安を実現するべく余深に相談した。

史実では韓忠彦との関連性は見られず、御史大夫を務めたことはない。蔡京の派閥に属するが後に敵対し、徽宗に対しても度々諫言を行っている。遼侵攻に対しては一貫して反対し、戦勝後は昇進を辞退するほどであったが聞き入れられず、太保となっている。
 
 
 8月15日 魯智深死去
  
呉を滅ぼした後、六和寺に駐屯していた宋軍であるが、魯智深は死期を悟ると、準備を整えた後、文字通り大往生を遂げた。第99回の地の文に「八月十五日」とある。
 
 
 9月6日 金の太宗即位
  
太祖は『水滸伝』には一切登場しない。しかし、光栄の『水滸伝』シリーズでは、タイムオーバー時にゲームを強制的に終了させるキャラクターとしてお馴染みであると思われるため、項目を設ける。

太祖が即位した日付については、『金史』の3巻(本紀3)に「丙辰」とある。『宋史』の22巻(本紀22)には5月に太祖が死去し、そのまま太宗が即位したように記されているが、『金史』の2巻(本紀2)によると太祖が死去したのは8月28日であるため、何もかもが間違っているという状態である。
 
 
 9月上旬 宋江らに帰還命令が下る
  
六和寺に駐屯していた宋軍に帰還命令が下ったため、宋江らは開封府に向かった。第99(119)回の地の文に「半月」とある。8月15日に魯智深が死去した後、「三晝夜功果(三日三晩の供養)」などを行った後の半月後であるため、9月上旬であると思われる。
 
 
 9月23日 宋江、開封府に戻る
  
宋江は帰還命令に従い、開封府へと凱旋した。第99回の地の文に「九月二十後」とある。日付の後に「後」と付けるのは他に見られないが、「9月20日以後」ということであると思われる。『水滸伝』では、その3日後に宋江らは徽宗に拝謁しているが、その日を本項では9月26日と定義したため、その3日前であれば9月23日ということになる。
 
 
 9月26日 宋江、徽宗に拝謁する
  
徽宗は宋江に関する報告を受け、宋江らを呼び出した。早朝のうちに宋江らは徽宗に拝謁した。徽宗は宋江らにねぎらいの言葉をかけ、生存者と戦没者のそれぞれに恩賞を与えた。第99(120)回の地の文に宋江らが帰還してから「三日之後」とあるが、その日は「九月二十後」というあいまいな表現であり、9月20日より後ということしかわからない。

一方、『宋史』22巻(本紀22)によると、宣和3(1121)年7月26日(戊子)に童貫が戦果を報告し、生け捕りにした方臘を献じている。これが元ネタと思われるため、2ヶ月遅らせて9月26日の出来事であると判断した。この特定により、前後の時系列を考察することが可能となる。

なお、『水滸伝』では、この場において方臘に占領された地の税を3年間免除し、睦州を厳州、歙州を徽州と改め、特に方臘の乱が起こった睦州の青溪県を淳安県に改名している。これらはいずれも『宋史』の22巻(本紀22)に見られる事実であるが、それぞれ実際に行われた日付は異なっている。

免税は宣和3(1121)年4月26日(庚寅)、方臘を捕らえた直後に行われている。州の名称が改められたのは5月5日(戊戌)である。また、同日には睦州の建德軍が遂安軍に改められているが、青溪県の改名を確認することはできない。ただし、『宋史』の88巻(志41)によると、どこかで青溪県が淳安県に改められたことは間違いないようである。
 
 
 9月27日 中書省、祝宴を設ける
  
中書省では戦勝を記念して祝宴を開き、宋江ら従軍した諸将も招かれた。第99(119)回の地の文に「次日」とある。本項の定義では9月26日の翌日なので9月27日とした。
 
 
 9月28日 枢密院、祝宴を設ける
  
枢密院の祝宴については、第99(119)回の地の文に「第三日」とある。1日目が徽宗への拝謁、2日目が中書省の祝宴と解釈し、3日目を9月28日とした。
 
 
 10月24日 方臘、凌遅刑に処される
 
方臘は開封府まで連行された後、凌遅刑に処された。 処刑の様子は公開され、遺体は3日の間放置された。『宋史』の22巻(本紀22)によると、宣和3(1121)年8月24日(丙辰)に方臘は処刑されている。本項では、これを2ヶ月遅らせて10月24日の出来事とした。なお、『宋史』には特に凌遅刑に処されたとする記述はない。