重和8(1118)年は『水滸伝』の第46回から59回あたりにまでに相当する。1月から7月までの間に祝家荘との戦いと雷横の梁山泊入りがあり、8月から10月までの間に梁山泊の高唐州侵攻があったと考えられるが、時系列を特定する手掛かりがないため、年表からは省略する。
 
 
 時系列  干支  西暦  回数  出来事
 7月上旬    7月中旬  51  朱仝、小衙内と出会う
 7月15日  乙未  8月3日  51  梁山泊、小衙内を殺して朱仝に罪を着せる
 7月16日  丙申  8月4日  52
 7月17日  丁酉  8月5日  52  滄州知府、朱仝を指名手配する
 8月中旬     8月下旬  52  柴進が柴皇城の邸宅に呼び出される
 冬    冬  55  呼延灼、梁山泊に侵攻する
 年内      (98)  田虎が反乱を起こし、威勝軍を占領する
 
       
 7月上旬 朱仝、小衙内と出会う
 
朱仝は護送中の雷横を逃がした罪により滄州で軍役に服することとなった。ある時、知府と話していると彼の息子の小衙内になつかれ、その子守をするようになった。

第51回の地の文に「時過半月之後、便是七月十五日盂蘭盆大齋之日」とある。半月後が7月15日に当たるため、この時点では半月前の7月1日前後、つまり6月下旬から7月上旬ということになる。ここでは便宜上7月上旬ということにした。
  
 
 7月15日 梁山泊、小衙内を殺して朱仝に罪を着せる
 
7月15日の盂蘭盆大齋の日、朱仝は小衙内の子守として街に出たが雷横に呼び止められ、呉用らから梁山泊に勧誘された。朱仝は断ったが、その間に小衙内は李逵に殺された。朱仝は李逵を追って柴進の邸宅に誘い込まれたが、柴進に言いくるめられて梁山泊への加入に同意した。第51回の地の文に「七月十五日盂蘭盆大齋之日」とあるため、7月15日の出来事であることが確定している。

以下は余談。この事件は『水滸伝』中、もっとも胸糞の悪いエピソードとして知られていると思われる。梁山泊に対して何ら敵対行動を示していない子供を殺し、その罪を人に擦り付けたこともさることながら、自分の身を挺して助けてくれた相手に対して、恩を仇で返すような真似をして一切悪びれないところも印象の悪さに拍車をかけている。

それどころか、宋江らは、それが朱仝にとって良いことであるかのように振る舞っているようにさえ思える。かつて助けた相手が善意で自分を陥れにやってくるというシチュエーションは、もはやホラーである。

なお、この一件に対して特に重要なことは2つある。1つは、柴進が「因見足下推阻不從、故意教李逵殺害了小衙內」と語っており、李逵が小衙内を殺したことを認識していることである。もう1つは、呉用と雷横が「皆是宋公明哥哥將令」と言っており、宋江が明確に小衙内殺害の指示を下したということである。

しかし、第52回では、宋江が朱仝に「卻是軍師吳學究因請兄長不肯上山、一時定的計策」と語っており、呉用の責任に転嫁している。ともあれ、それを承認したのが宋江であることには間違いない。
 
 
 7月16日 小衙内の遺体が発見される
 
朱仝が梁山泊入りに同意した後、打ち捨てられた小衙内の遺体は翌日に発見された。知府は自ら遺体を確認し、痛哭の後に火葬した。第52回の地の文に「次日」とある。7月15日の「次日」であるため、7月16日の出来事ということになる。
  
 
 7月17日 滄州知府、朱仝を指名手配する
 
滄州の知府は朱仝の逮捕を命じて賞金もかけたが、すでに朱仝は梁山泊に逃走し、その妻も梁山泊に拉致された後であった。第52回の地の文に「次日」とある。7月16日の「次日」であるため、7月17日の出来事ということになる。
 
 
 8月中旬 柴進が柴皇城の邸宅に呼び出される
 
柴進は叔父の柴皇城から至急の呼び出しを受けたため、翌日には李逵とともに柴皇城の邸宅に向かった。第52回の地の文に「李逵在柴進莊上住了一個來月」とある。李逵が柴進の邸宅に留まることになった7月15日からおよそ1ヶ月後の出来事ということになるため、8月15日前後ということになる。
  
 
 冬 呼延灼、梁山泊に侵攻する
 
呼延灼は高俅より梁山泊の討伐を命じられ、8000の兵を率いて梁山泊を攻撃した。梁山泊軍は緒戦で副先鋒の彭玘を捕らえたが、呼延灼が連環馬を繰り出すと苦戦し、勝ちを制することができなかった。その日のうちに彭玘は梁山泊に降伏し、呼延灼と韓滔は翌日に全力で連環馬を繰り出す作戦を立てた。

第55回の地の文に「冬天」とある。旧暦の冬であるため、10月から12月のいずれかということになる。
 
 
 年内 田虎が反乱を起こし、威勝軍を占領する
 
田虎は盗賊として近隣を荒らしまわった後、民衆を扇動して威勝軍を占領した。120回本の第98回によると、田虎が威勝軍を制圧したのは、瓊瑛が葉清に保護されてから「過了一年有餘」である。1年前の政和7(1117)年当時の瓊瑛は「年至十歲時」、つまり数え年で10歳、満年齢で9歳である。よって、1年後の瓊瑛は数え年で11歳、満年齢で10歳ということになる。

瓊瑛は第98回で「一十六歲」と明記されている。これも数え年であるため、満年齢だと15歳ということになる。彼女が15歳である年は宣和5(1123)年であるため、5年前の政和8(1118)年に田虎は反乱を起こしたということになる。