宣和4(1122)年は100回本の第81回から第89回、120回本では第93回までに相当する。梁山泊が招安を受け入れ、遼との戦いに勝利するまでが中心となる。史実との対比において非常に重要なことは、史実でも遼との戦いはこの年に行われているということである。つまり、ここにきてはじめて史実と『水滸伝』は時系列的に完全な一致を見せることになる。

さらに、史実の宋は遼に惨敗し、『水滸伝』では完勝しているという一見正反対の結果も、その後の宋の動向を見れば、結局のところは首都まで侵攻していながら陥落しきれずに引き返しているという点では同じであり、これらの共通性についてはもっと認識されても良いのではないかと思われる。

なお、『水滸後伝』では『水滸伝』と史実の遼侵攻を別物としており、第6回から史実通りの遼侵攻の計画が練られ、以後はほぼ史実通りの展開となる。その結果、『水滸伝』で明記されている時系列とは明らかに食い違いが生じてしまっている。

具体的には『水滸伝』の描写だと宋江は「宣和六年首夏初旬」に死亡しているにもかかわらず、『水滸後伝』の第7回、宋の朝廷では「宣和二年二月吉日」に遼侵攻について討議しているのである。ついでに言えば、この討議は『宋史』の第20巻(本紀20)によると政和元(1111)年の出来事であり、『水滸後伝』のおよそ10年前に当たる。
 
 
 時系列  西暦  干支  回数  出来事
 1月13日  2月21日    宋史  金、遼の首都を攻略する
 1月  2月    81  聞煥章、宿元景に書簡を送る
 2月15日  3月5日    82  梁山泊、宋の招安を受諾する
 3月3日  4月11日    82  宋江、10日間の市を開催する
 3月13日  4月21日    82  市終了。宋江、梁山泊を出立する
 3月17日  4月25日  丙子  宋史  耶律淳即位、北遼建国
 5月23日  6月28日  庚辰  宋史  宋、遼に侵攻する
 6月  7月    85  宋江と公孫勝、羅真人と面会する
 7月中旬  8月    85  遼、旧梁山泊軍の引き抜きを目論む
 9月  9月   (98)  葉清、襄垣県の守りに着く
 10月上旬  10月下旬    87  「第一次永清県の戦い」。遼軍、宋軍に勝利
 10月13日  11月13日  戊戌  89  「第五次永清県の戦い」。宋軍、遼軍に勝利
 10月14日  11月14日  己亥  89  遼、宋に降伏を願い出る
 10月15日  11月15日  庚子  89  褚堅、開封府に向かう
 冬  冬   (98)  瓊英、夢の中で張清と出会う
 12月29日  1月28日   (93)  張清と安道全が復帰する
 
 
 1月13日 金、遼の首都を攻略する
 
金は宋との密約に基づいて遼へと侵攻、首都の中京を攻略した。遼の皇帝天祚帝は北方の夾山へと逃れた。遼の領土は南京の燕京を残すのみとなった。『宋史』の22巻(本紀22)に記述がある。
 
 
 1月 聞煥章、宿元景に書簡を送る
 
高俅による3度目の梁山泊侵攻が失敗に終わった。その幕僚となっていた聞煥章は梁山泊に人質として留め置かれた。聞煥章は宿元景の学友であったため、宋江は聞煥章に宿元景へのとりなしを求めた。聞煥章は梁山泊の帰順の意を示した書簡を記し、燕青に送り届けさせた。第81回の地の文に「正月」とある。
 
 
 2月15日 梁山泊、宋の招安を受諾する
 
童貫と高俅の攻撃を退け、その戦闘能力を誇示した宋江は、宋からの丁重な申し出による招安を受諾した。第82回で読み上げられた詔書に「宣和四年春二月」とある。『皇宋十朝綱要』の11巻には、前年の宣和3(1221)年の「庚辰(15日)」に張叔夜が宋江を降したとある。月が一致していることから、これを元ネタと見なし、時系列を合わせる。

ただし、「東都事略」の11巻によると、実際に宋江が捕らえられたのは「五月丙申(5月4日)」であるという。これに基づくならば、宋江は方臘の乱の鎮圧後に捕らえられたことになる。1939年に発掘された「宋故武功大夫河東第二将折公墓誌銘」では、日付こそ明記されていないものの、やはり方臘の後に宋江が捕らえられたと記されており、盗賊の宋江と将軍の宋江は別人であるという説の裏付けにもなっている。

『水滸伝 虚構の中の真実』では、宋江が2月に捕らえられたという記述は、2月に張叔夜に命を下したことと、5月に宋江が捕らえられたという結果をまとめて記したものであると考察している(38ページ参照)。いずれにせよ、これらの情報は『水滸伝』の時系列との間に矛盾が生じるため採用しない。
 
 
 3月3日 宋江、10日間の市を開催する
 
宋江は招安を受諾したことで梁山泊を引き払うこととした。それに伴い、これまでに貯め込んだ資源を処分するため、10日間の市を開催して不用品を売却すると布告した。第82回の地の文に「三月初三日」とある。
 
 
 3月13日 市終了。宋江、梁山泊を出立する
 
10日間の市が終わると、宋江は告知通り梁山泊を出立し、兵を率いて開封府に向かった。上述の通り、3日にはじまった市が10日間続いたため、3月13日の出来事ということになる。
 
 
 3月17日 耶律輝、遼王に即位する
 
史実では、1月13日に遼の首都中京が陥落、皇帝の天祚帝が逃亡したため、取り残された燕京の残存勢力は皇族の耶律淳を擁立して遼を再興した。『宋史』の22巻(本紀22)に「丙子」とある。この遼は一般的に北遼と称される。

『水滸伝』には、これらに関する描写は一切ない。しかし、遼の歴史において燕京を首都にした時期は北遼時代しかなく、『水滸伝』の遼が燕京を首都としている以上、やはり史実を反映しているものと考えるのが妥当であると思われる。

史実の耶律淳に対し、『水滸伝』では耶律輝という架空の人物が君臨していることについては、歴史的事実との整合性を考慮するならば2つの注目するべき点がある。、1つ目は、耶律淳が即位した際、自らが皇帝を称するために天祚帝を王に貶めていることである。『水滸伝』では、遼帝国は一貫して王国として扱われているが、耶律淳が元首であるならば宋と同等の帝国でなければならない。しかし、耶律輝が天祚帝を憚って王を称したのだとすれば、遼が王国であっても不自然ではなくなる。

もう1つは、耶律淳が即位3か月後の6月に死去していることである。さらに史実では、その後に方針を統一できず、内乱状態となっている。これらを『水滸伝』に持ち込むと、遼の情勢に尺を裂くことになり、本筋からは外れてしまう。そのため、耶律淳のようにすぐに死なず、皇帝を称することもなかった人物として耶律輝を当てはめたものと考えられる。
 
 
 5月23日 宋、遼に侵攻する
 
宋の朝廷は宋江に遼への侵攻を命じた。遼の国境付近に到着した宋江は協議の末に檀州を攻略することとした。第83回に描写があるものの、時系列は記されていない。そのため、『宋史』の22巻(本紀22巻)の記述を採用した。

『水滸伝』では、先に攻め込んだのは遼であり、童貫は蔡京らとともに救援要請を握りつぶしている。これに対して史実では、先に攻め込んだのは宋であり、童貫は侵攻計画そのものの立案者であると同時に自ら指揮を執っている。また、蔡京は侵攻に反対する立場にあり、2人は完全に対立している。

なお、『宋史』の22巻(本紀22巻)によると、史実の宋軍は遼軍に対して連敗を重ね、翌月には徽宗が詔を降して正式な撤退を命じるという『水滸伝』とは正反対の状況になっている。ついでに言うと、この時に宋軍の兵を指揮していたのが第2回の王進や第3回の魯達(魯智深)の話の中に出てきた老种經略相公こと种師道である。
 
 
 6月 宋江と公孫勝、羅真人と面会する
 
宋軍は遼の檀州と薊州を占領した。薊州には公孫勝の師匠の羅真人がいたため、宋江は公孫勝を連れて羅真人に会った。羅真人は宋江の運命を予言するとともに、戦いが終わった際には公孫勝を自分の元に返すことを求めた。宋江は快諾し、実際に約束を果たしたが、その結果として、梁山泊は方臘との戦いで苦戦することとなり、旧梁山泊軍が壊滅する一因となった。

後述することになるが、、第85回では、これより「一月有餘」を経て「七月半」となる。逆に言えば、この出来事は7月中旬の一月ほど前にあったということである。よって6月の出来事ということになる。
 
 
 7月中旬 遼、旧梁山泊軍の引き抜きを目論む
 
遼の朝廷では、薊州を占領した宋軍が旧梁山泊軍であることを知ると、利害を説いて取り込もうと目論み、使者を薊州に送った。このころ、宋江は朝廷からの要請で覇州への進撃準備を整えており、覇州制圧を容易にするため、遼の提案に乗るふりをした。前述の通り、第85回に「七月半」とある。
 
 
 9月 葉清、襄垣県の守りに着く
 
晋王を称した田虎は徐威に占領した襄垣県を委ねていたが、さらに葉清を派遣して守りを固めた。120回本の第98回によると、葉清が赴任した半年後に宋軍が襄垣県を攻撃している。事例列については、この後の3月16日に張清と瓊英が結婚しているため、それ以前であることが確定する。

次に宋軍は翌年2月下旬に「五陰山の戦い」で晋軍に勝利しており、それより10日ほど後に公孫勝と喬道清が馬霊を説得するために汾陽県に向かっている。その後に宋軍が襄垣県を攻撃しているため、およそ3月上旬以後であることが確定する。つまり、3月上旬から3月中旬の出来事ということになり、その半年前に葉清が赴任したことになるため、9月ころに葉清が赴任したことが分かる。
 
 
 10月上旬 「第一次永清県の戦い」。遼軍、宋軍に勝利
 
遼軍は兀顔光の指揮のもと、20万の兵で覇州から幽州に侵攻してくる宋軍を迎え撃った。両軍は幽州と覇州の境の永清県で衝突し、遼軍が勝利した。第87回の地の文に「此時秋盡冬來」とある。旧暦の冬が来たということなので10月上旬の出来事となる。
 
 
 10月13日 「第五次永清県の戦い」。宋軍、遼軍に勝利
 
宋軍は4度に渡って幽州への侵攻を目論んだが、遼軍によってことごとくを阻止された。宋江は夢の中で九玄天女に会い、指示された打開策に従って準備を整えた。5回目の戦闘は夜戦となったが、遼軍は戦死者だけでも20万におよび、総大将の兀顔光が戦死するという文字通りの壊滅的な打撃を受け、降伏を余儀なくされた。

戦闘の経過自体は第89回に描写がある。時系列については、この日の「次日」に遼が降伏を申し出ている。本項では後述のように「次日」を10月14日と定義したため、その前日の10月13日の出来事であると考えられる。
 
 
 10月14日 遼、宋に降伏を願い出る
 
遼は「第五次永清県の戦い」に敗れ、戦力が壊滅したことから、宋に使者を遣わし、臣従を願い出た。第89回、遼から宋へと送られた書簡に「冬月」とある。これは冬のことであり、旧暦の10月から12月のいずれかということになる。

『宋史』の22巻(本紀22)によると、「己亥」の日に北遼は宋に臣従を申し出ており、これが元ネタであると思われる。『水滸伝』の時系列的にも、10月上旬に「第一次永清県の戦い」があり、その後の「第五次永清県の戦い」に宋が勝利したことで遼が降伏したことになるため、矛盾はない。

なお、史実では降伏は認められず、北遼は宋の総攻撃を受けているが、撃退に成功している。北遼軍は追撃に移り、12月2日の「永清県の戦い」の勝利をもって宋軍を領内から排除した。童貫は金に燕京の攻略を要請、金は12月6日に燕京を攻略し、北遼は滅亡した。

史実では、遼という緩衝地帯がなくなったことで宋と金は国境を接することとなった。そのうえ、宋による離間工作や約束の報酬の未払い、遼の残党との対金協議などの背信行為を重ねたことで金に滅ぼされている。第89回では、遼からの賄賂を受け取った蔡京が遼を緩衝地帯として残すように進言し、宋江が遼を滅ぼせなかったことを残念がる描写があるが、史実の結果から見れば皮肉と言うほかはない。
 
 
 10月15日 褚堅、開封府に向かう
 
遼は右丞相の褚堅を開封府に遣わし、正式な臣従の手続きを整えるとともに、遼の存続のための手回しを行うこととした。第89回の地の文に「次日」とある。本項では、遼が降伏した日を10月14日と定義したため、その翌日であれば10月15日ということになる。
 
 
 冬 瓊英、夢の中で張清と出会う
 
田虎の義理の姪に当たる瓊英は、田虎らが実の父母の仇であることを知り、復讐の時を待っていた。ある時、瓊英が神人に武芸を教わる夢を見たところ、目が覚めても感覚が残っていたため、修練を積んで武芸者となった。そのような日々が続いた後、神人が連れてきた飛礫の達人からも技術を学び、飛礫の技法をも極めた。宋と晋の戦いが勃発した後、瓊英は飛礫の達人が張清であったことを知る。120回本の第98回に「宣和四年的季冬」とある。
 
 
 12月29日 張清と安道全が復帰する
 
120回本の第91回において、張清は晋との戦いの途中で風邪を引いたため、後退して療養することになった。安道全が治療にあたることとなり、2人は戦線を離脱していたが、宋軍が蓋州を占領した年末に復帰した。120回本の第93回、宋江が張清を出迎える場面で「明日是宣和五年的元旦」と言っている。「元旦」は1月1日であり、その前日は太陰暦で12月29日となる。