100回本の『水滸伝』の場合、宣和4年の冬に宋と遼の戦いが終わり、宋江らは宣和5年の正月を開封府で迎えている。宋江らが方臘の建国した呉との戦いに赴くのは1月19日であり、以降は呉との戦いが続く。つまり、宋と遼との戦いが終わり、呉との戦いがはじまるまでの期間は、最大限に見積もって宣和4年冬の間の3ヵ月弱ということになる。

一方、120回本では遼との戦いと呉との戦いの間に田虎の晋と王慶の楚との戦いが挿入されている。時系列を合わせるのであれば、宣和4年冬の3か月以内に決着をつけなければならない。しかし、120回本では第93回で年が明けて宣和5年となったことを明記した後に1年ほど戦いが続き、第110回で改めて年が明けて呉との戦いがはじまっている。

つまり、120回本の時系列に従うのであれば、宋と呉との戦いは宣和6年でなければならないのであるが、第119回で描写される元号は宣和5年であり、100回本と変わらない。要するに120回本の時系列的に従うと宣和5年が2回あることになり、時系列が破綻しているということになるのである。ここでは便宜上、120回本の宣和5年を宣和5年(120回本)と表記して本来の宣和5年と区別する。
 
 
 時系列  干支  西暦  回数  出来事
 1月1日  乙卯  1月29日  (93)  宋江は朝賀の礼を取り、唐斌は関勝に内通する
 1月2日  丙辰  1月30日  (93)  宋江、東郊で迎春の儀式を行う
 1月3日  丁巳  1月31日  (93)  大雪が降る。李逵が宴会中に夢を見る
 1月4日  戊午  2月1日  (93)  雪が止む。宋江、兵を二分して行軍の準備を始める
 1月6日  庚申  2月3日  (94)  蓋州の陽城県と泌水県が晋から離反、宋に帰順する
 1月中旬    2月中旬  (94)  「壺関の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 1月30日  甲申  2月27日  (94)  宋江、関勝より唐斌内通の知らせを受ける
 2月1日  乙酉   2月28日  (94)  宋江、唐斌の内応により壺関を占領する
 2月2日  丙戌  3月1日  (94)  「昭徳軍の戦い」。晋軍、宋軍に勝利
 2月3日  丁亥  3月2日  (94)  喬道清、捕虜の処刑を思いとどまる
 2月6日  庚寅  3月5日  (97)  盧俊義、濃霧に乗じて晋寧軍を攻略する
 2月7日  辛卯  3月6日  (97)  「晋寧軍の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 2月8日  壬辰  3月7日  (96)  「五龍山の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 2月9日  癸巳  3月8日  (96)  宋江、昭徳軍を再包囲する
 2月11日  乙未  3月10日  (96)  宋江、昭徳軍に降伏を勧告する
 2月12日  丙申  3月11日  (97)  昭徳軍は宋に降伏し、孫安は喬道清を説き伏せる
 2月13日  丁酉  3月12日  (97)  宋江は戦勝を報告し、蔡京らは宋江を弾劾する
 2月14日  戊戌  3月13日  (97)  戴宗、宿元景に戦勝を報告する
 2月15日  己亥  3月14日  (97)  宿元景、徽宗に宋江の戦勝を報告する
 2月16日  庚子  3月15日  (97)  戴宗、昭徳軍に戻り、宋江に状況を報告する
 2月下旬    3月中旬   (98)  「五陰山の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 3月16日  己巳  4月13日  (98)  張清と瓊英が結婚する
 3月18日  辛未  4月15日  (98)  宋軍、襄垣県および潞城県を占拠する
 3月下旬    4月中旬  (99)  「汾陽の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 4月上旬    5月上旬  (99)  「太原の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 4月    5月  (101)  徽宗、宋江に王慶討伐の勅令を降す
 5月5日  丁巳  5月31日  (101)  宋江、宴会を開き、諸将の労をねぎらう
 5月6日  戊午  6月1日  (101)  宋江、王慶討伐に出陣する
 7月中旬    8月中旬  (105)  「方城山の戦い」。宋軍、楚軍に勝利
 7月下旬    8月下旬  (105)  「宛州の戦い」。宋軍、楚軍に勝利
 8月上旬    9月中旬  (105)  宋軍、山南軍へ侵攻を開始する
 8月中旬    9月中旬  (106)  「襄水の戦い」。宋軍、楚軍に勝利
 9月    10月  (108)  孤立した宋軍が本隊と合流する
 11月    12月  (109)  王慶、李俊らに捕らえられる
   
 
 1月1日 宋江は蓋州より朝賀の礼を取り、唐斌は関勝に内通する
 
宋江率いる旧梁山泊軍は晋の蓋州を占領、同地で新年を迎えた。120回本の第93回、張清と安道全が旧梁山泊と合流したした際の地の文に「明日是宣和五年的元旦」とある。

一方、衛州の守備を任されていた関勝は、同日に晋の唐斌らの内通を受け入れ、機会に応じて蜂起する約束を交わした。こちらは120回本の第94回に「新歲元旦」とある。
 
 
 1月2日 宋江、東郊で迎春の儀式を行う
 
宋江は蓋州に留まり、元旦の儀式に続いて迎春の儀式を行った。120回本の第93回の地の文に「次日」とある。前述の1月1日の「次日」であるため、1月2日であるということになる。
 
 
 1月3日 大雪が降る。李逵が宴会中に夢を見る
 
夜のうちに雪が降り、朝には雪が積もっていたため、旧梁山泊軍は宴会を開いた。李逵は途中で眠りに落ち、書生から瓊英に関連した対句を聞かされた。120回本の第93回の地の文に「明日」とある。前述の1月2日の「明日」であるため、1月3日であるということになる。
 
 
 1月4日 雪が止む。宋江、兵を二分して行軍の準備を始める
 
宋江、盧俊義、呉用らは、戦力を東西に二分して進軍、最終的に合流して包囲網を形成する戦略を立てた。120回本の第93回の地の文に「次日」とある。前述の1月3日の「次日」であるため、1月4日であるということになる。
 
 
 1月6日 蓋州の陽城県と泌水県が晋から離反、宋に帰順する
 
晋に占領されていた蓋州の陽城県と泌水県で反乱が起こり、それぞれの住民が駐屯していた晋の指揮官を捕らえた。住民たちは宋江に投降したため、宋江は彼らを許し、晋の指揮官らを処刑した。120回本の第94回の地の文に「六日吉期」とある。
 
 
 1月中旬 「壺関の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 
宋江率いる宋軍5万人は東路を進み、天池山の壺関まで侵攻した。一方、晋軍は山士寄が3万人の兵で壺関を守り、抱犢山を守る唐斌と連携して守りを固めていた。山士寄は偵察中の宋軍5千人を2万人の兵で攻撃したが、援軍を得た宋軍に破れ、2千の兵を失った。山士寄は退いて守りを固め、田虎に援軍を要請した。一方、宋江も壺関の守りが堅いのを察して攻撃を控え、戦線は膠着した。

120回本の第94回の地の文によると、「相拒半月有余」した後に唐斌の内通の知らせがある。その日は1月30日と考えられるため、1月30日の半月ほど前となれば1月中旬ということになる。
 
 
 1月30日 宋江、関勝より唐斌内通の知らせを受ける
 
山士寄は抱犢山を守る唐斌と連携して壺関の守りを強固なものとしていたが、唐斌は前々から宋への帰順を考えており、前述のように関勝と連絡を取っていた。この状態を好機と見た唐斌は、関勝を通じて宋江に協力することを伝えた。

120回本の第94回の地の文に「候至天明」とある。夜が明けたということである。夜が明けた次の日は2月1日であるため、この日は前日の1月30日ということになる。
 
 
 2月1日 宋江、唐斌の内応により壺関を占領する

山士寄は、唐斌の勧めで抱犢山の戦力と連携して宋軍と戦うべく壺関を出たが、宋軍と内通している抱犢山は兵を出さず、逆に壺関を占領した。敵中に孤立した山士寄は、壊滅的な損害を出しつつも、かろうじて逃走に成功した。

120回本の第94回によると、宋江が壺関を落とした「次日」より昭徳軍に侵攻している。この「次日」は2月2日であるため、その前日であればは2月1日ということになる。
 
 
 2月2日 「昭徳軍の戦い」。晋軍、宋軍に勝利
 
この日、宋江は西路を進んだ盧俊義と連絡を取るために戴宗を遣わした。自らは昭徳軍に攻撃をかけた。しかし、喬道清率いる晋軍が昭徳軍の救援に駆けつけ、南門を攻撃中の宋軍を撃破し、李逵ら6人の指揮官を捕らえた。知らせを聞いた宋江は自ら兵を率いて喬道清と交戦したが戦いに破れて逃走した。

120回本の第95回の地の文に「宋江等秉燭待旦」とある。「旦」は明日、朝の意味であり、「宋江らは明かりをつけて夜明けを待った」ということである。この日の翌日は2月3日であるため、この日は2月2日であるということになる。戴宗に関する記述は120回本の第94回にあるが、いずれも同日の出来事であるため、こちらも2月2日の出来事ということになる。
 
 
 2月3日 喬道清、捕虜の処刑を思いとどまる
 
喬道清率いる晋軍は「昭徳軍の戦い」で宋軍を破り、李逵らを捕虜とした。喬道清は李逵らに降伏を勧めたが、面罵されたため、怒って処刑しようとした。しかし、死を恐れない彼らの態度に感じ入るものがあり、投獄するにとどめた。

120回本の第96回の描写に「那日是二月初八日」、つまりは2月8日とある。120回本の第95回の地の文には「一連的過了五六日」とあり、この項の日付から5、6日が過ぎて2月8日になったことが分かる。そのため、この項の日付は5日前であれば2月3日、6日前であれば2月2日ということになる。2月2日は前述の通り「昭徳軍の戦い」があった日であるため、2月3日にであることが確定する。

一方、前日の2月2日に昭徳軍の宋江から晋寧軍の盧俊義のもとに遣わされた戴宗は、2月6日に晋寧軍の状況を確認している。120回本の第97回の本人の報告によると到着より「一連住了三四日」、つまり、2月6日の3、4日前に到着したということになる。これも3日前ならば2月3日、4日前であれば2月2日となるが、前述の通り、2月2日に戴宗は出発したため、その翌日の2月3日に合流したことになる。ここはいずれも「了〇×日」という描写が「〇日」の方に特定できるようになっている。
 
 
 2月6日 盧俊義、濃霧に乗じて晋寧軍を攻略する
 
西路を進んだ盧俊義率いる宋軍は晋の晋寧軍の攻略に手間取っていたが、濃霧に乗じて土塁を重ねて城壁を乗り越え、その奪取に成功した。一方、晋では孫安が2万人の兵を率いて晋寧軍の救援に駆けつけたが間に合わず、一戦の後に双方が陣を構えて対峙した。

120回本の第97回、宋江が盧俊義の元に使わせた戴宗が帰還し、状況を報告した際に「今月初六日」と言っている。ここでは「今月」としか言っていないが、すでに2月に入っているため、2月6日ということになる。
  
 
 2月7日 「晋寧軍の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 
盧俊義率いる宋軍は再度孫安率いる晋軍と交戦、誘引と伏兵によって孫安を捕らえ、晋の兵士5千人を殺害した。孫安は投降し、生き残った兵士を説き伏せて盧俊義に合流した。120回本の第97回、戴宗は報告で「次日」と言っている。2月6日の翌日にあたるため、2月7日の出来事ということになる。
 
 
 2月8日 「五龍山の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 
五鼓(4時ころ)、喬道清は2万人の兵で五龍山に布陣し、自ら1万人の兵を率いて2万人の兵を有する宋江の宋軍に戦いを挑んた。緒戦は妖力で兵力の不利を補ったが、巳牌(10時ころ)に宋軍は公孫勝の助力を得て妖力でも喬道清を圧倒したため、戦いは宋軍の有利に進み、申牌(16時ころ)には勝負がついた。晋軍は昭徳軍の守備兵1万人を含む2万5千人が死亡した。

酉牌(18時ころ)、宋軍は喬道清を捕らえようとする公孫勝の進言で晋軍の追撃を取りやめた。そのため、喬道清は敗残兵を率いて北方に撤退、百谷嶺の神農廟に立てこもったが、二更(22時ころ)には公孫勝率いる宋軍に包囲された。120回本の第96回の地の文に「二月初八日」と明記されている。120回本の中でも、この戦いは特に時系列が細かく描写されており、追加部分のハイライトとなっている。
 
 
 2月9日 宋江、昭徳軍を再包囲する
 
宋江は公孫勝に喬道清の対処を任せると、昭徳軍を再包囲した。しかし、昭徳軍の戦意は衰えず、なお持ちこたえていた。120回本の第96回の地の文に「次日」とある。前述の2月8日の翌日ということであるため、2月9日の出来事ということになる。
 
 
 2月11日 宋江は昭徳軍に降伏を勧告し、戴宗は晋寧軍を出立する
 
昭徳軍が持ちこたえていたため、宋江は呉用の策に従い、矢文を撃ち込んで降伏を勧告した。120回本の第96回の地の文に「連攻打二日」とある。前述の2月9日より2日間攻め立てたということであるため、2月11日の出来事ということになる。

一方、陥落した晋寧軍では、降伏した孫安が喬道清の危険性を説き、その説得を申し出た。盧俊義は申し出を受け入れたため、戴宗は孫安を連れて晋寧軍から昭徳軍をに向かった。こちらは120回本の第97回の地の文に「昨日」とある。後述の考察から、2月12日の「昨日」であることが分かるため、2月11日の出来事ということになる。
 
 
 2月12日 昭徳軍は宋に降伏し、孫安は喬道清を説き伏せる
 
宋江の矢文に対して昭徳軍で内紛が起こり、降伏派が勝利したため、彼らは抗戦派の将軍を殺して宋江に投降した。さらに戴宗と孫安も昭徳軍に到着、孫安は喬道清を説き伏せ、昭徳軍を巡る一連の戦いを終結させた。120回本の第97回の地の文に「次日」とある。前述の2月11日の翌日ということであるため、2月12日の出来事ということになる。
 
 
 2月13日 宋江は戦勝を報告し、蔡京らは宋江を弾劾する
 
宋江は昭徳軍の攻略を徽宗に報告するため、戴宗を遣わした。120回本の第97回の地の文に「次日」とある。前述の2月12日の翌日ということであるため、2月13日の出来事ということになる。

一方、宋の朝廷では、蔡京らが宋江らの敗戦を咎め、徽宗に弾劾を進言していた。こちらは、同じく120回本の第97回、宿元景が戴宗に朝廷の状況を説明した際に「前日」と言っている。後述の2月14日の「前日」に当たるため、2月13日ということになる。

ちなみに、宋江の敗戦のことであるが、宋江らは「昭徳軍の戦い」の緒戦で喬道清に敗れており、蔡京らは一時的とはいえ正しいことを言っているようにも見える。しかし、ここでの描写は壺関の戦い前後の話をしており、まだ最新の情報は入ってきていないらしい。つまり、讒言がたまたま情勢と一致しただけのようである。
 
 
 2月14日 戴宗、宿元景に戦勝を報告する
 
開封府に着いた戴宗は、まず宿元景に戦勝を報告したが、宿元景らは先日に蔡京らが宋江を弾劾したことを知らせ、翌日に正しい情報を伝えると約束した。120回本の第97回の地の文に「次日」とある。2月13日の翌日ということであるため、2月14日ということになる。
 
 
 2月15日 宿元景、徽宗に宋江の戦勝を報告する
 
宿元景は前日に戴宗から知らされた最新情報を徽宗に報告した。徽宗は喜び、宋江らをねぎらうように命じた。宿元景は一連のやり取りを戴宗に伝え、宋江に当てた書簡を渡すと、戴宗はその日のうちに開封府を出立した。120回本の第97回の地の文に「次日」とある。2月14日の翌日ということであるため、2月14日ということになる。
 
 
 2月16日 戴宗、昭徳軍に戻り、宋江に状況を報告する
 
2月15日に開封府を出た戴宗は、翌日の内に昭徳軍へと帰還、宋江に一連のやり取りを報告し、宿元景から預かった書簡を手渡した。120回本の第97回の地の文に「次日」とある。2月15日の翌日ということであるため、2月16日ということになる。
 
 
 2月下旬 「五陰山の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 
宋江らは按撫使の陳瓘を迎え、昭徳軍の管理を委ねた。その後、晋軍進撃の知らせを受けると、3万5千人の兵を率いて迎撃に向かった。宋江は1千の騎兵を偵察に向かわせたが、五陰山で同数の晋軍の斥候と交戦した。初戦は宋軍の勝利に終わったが、晋の敗残兵は本隊の前衛5千と合流して反撃に転じ、数で劣る宋軍は苦境に陥った。

宋軍は本隊の到着をもって体勢を立て直すが、晋軍もまた本隊の3万人の兵を得て混戦状況となり、晋軍の総指揮官である鄔梨が負傷したため、兵を退くというかたちで宋軍が勝利した。120回本の第98回の地の文に「二月將終」とある。また、宋江らが陳瓘を迎える場面に「一連過了十餘日」とある。2月16日から10日ほど経過したということであり、2月26日以降の出来事ということになるため、いずれも時系列は一致する。
 
 
 3月16日 張清と瓊英が結婚する
 
安道全と張清は鄔梨の傷を見に来た医者という名目で晋に潜入した。そして鄔梨の傷を癒して信頼を得、張清と瓊英は結婚するに至った。ここで張清は瓊英に素性を明かし、鄔梨の毒殺を共謀した。120回本の第98回の地の文に「三月十六日」と明記されている。
 
 
 3月18日 宋軍、襄垣県および潞城県を占拠する
 
張清、瓊英、安道全、葉清らは鄔梨と徐威を暗殺、襄垣県の県城を占拠した。知らせを受けた呉用は、簫譲に鄔梨の文体に似せた偽文書を作らせて田虎を誘引することとした。さらに、潞城県に向かっていた別動隊も潞城県の攻略に成功し、この日に報告を送ってきた。120回本の第98回の地の文に「挨了兩日」とある。3月16日の2日後ということになるため、3月18日の出来事ということになる。
 
 
 3月下旬 「汾陽の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 
盧俊義率いる宋軍は汾陽府まで侵攻したものの、馬霊率いる3万人の兵に連敗を重ねていた。しかし、宋江の部隊から公孫勝と喬道清の救援を得て馬霊の妖術を打ち破り、汾陽府を占領した。120回本の第99回、瓊英との戦いで行方不明になっていた魯智深が現れて馬霊を捕らえた際、まだ2月の下旬だと思っている魯智深に対して戴宗が今は「三月下旬」と言っている。
 
 
 4月上旬 「太原の戦い」。宋軍、晋軍に勝利
 
汾陽府を占領した盧俊義の部隊は、進撃を続けて太原府を包囲したが、長雨によって戦闘は長期化していた。一方、関勝らの部隊は大谷県を攻略後、兵を休めていたが、その一員であった李俊は、盧俊義の元に出向いて水攻めを提案、堰を築いて水を貯め、太原府に放つと、それに乗じて太原府を急襲し、そのまま占拠した。

太原府の住民は、すでにほとんどが逃走していたが、残っていた住民は激流に流され、生き残った者も避難中の混乱で2千人以上が死亡し、最終的な生存者は千人ほどであった。120回本の第99回の地の文に「四月上旬」とある。
 
 
 4月 徽宗、宋江に王慶討伐の勅令を降す
 
徽宗は楚の勢力が拡大していることを羅戩から知らされ、勅命を降して晋を滅ぼした宋江らに楚への侵攻を命じた。120回本の第101回、読み上げられた詔書に「四月」とある。ここでは4月としか記されていないが、それ以前の描写から、晋滅亡後に詔書が書き上げられたことは間違いない。
 
 
 5月5日 宋江、宴会を開き、諸将の労をねぎらう
 
宋江らが、旧晋領の残務処理と楚侵攻のための人員の再編を終えたのは、ちょうど5月5日の天中節の日であった。そのため、宋江は戦果報告のために開封府へと向かった張清、瓊英、葉清を除く107人の旧梁山泊の頭領と17人の晋の投降者、そして親宋江派の役人である侯蒙、陳瓘、羅戩らと新しく赴任する役人らを一同に会して宴会を開き、天中節を祝った。120回本の第101回の地の文に「五月五日天中節」とある。
 
 
 5月6日 宋江、王慶討伐に出陣する
 
祝宴の翌日、宋江は兵を率いて楚に向かった。120回本の第101回の地の文に「次日」とある。5月5日の翌日であるため、5月6日ということになる。
 
 
 7月中旬 「方城山の戦い」。宋軍、楚軍に勝利
 
宋江は宛州の楚軍に痛打を与えるべく、誘引作戦を試みた。3万人の兵のうち、1万人を方城山の森林地帯に休ませて囮とし、残る2万人は2分して潜ませ、囮に食らいついた楚軍を包囲しようとしたのである。

楚の劉敏は誘いに乗り、2万3千人の兵の兵で方城山を焼いた。風向きまで含めて万全であったが、喬道清の妖術で風向きが変わり、火が楚軍に向かったために混乱をきたし、伏兵によって壊滅状態となった。この戦いの結果、劉敏は逃げ延びたものの、楚の兵士は数百人を残して全員が命を落とし、宋軍の被害は皆無であった。120回本の第105回の地の文に「七月中旬新秋」とある。
 
 
 7月下旬 「宛州の戦い」。宋軍、楚軍に勝利
 
宋江による宛州攻略は手間取り、南北からの楚の援軍を到着を許したが、宋軍はいずれも撃破に成功、同日のうちに攻城兵器も完成したため、そのまま宛州の攻略に成功した。後述するように、120回本の第105回によると、宛州攻略から「過了十餘日」して「八月初旬」となっている。つまり、8月上旬の10日前に宛州を攻略したことになるため、7月下旬の出来事であると考えられる。
 
 
 8月上旬 宋軍、山南軍へ侵攻を開始する
 
宛州を占領した宋江と呉用は次の目的について話し合った。その結果、楚の要衝である山南軍を奪取して楚を南北に分断する方針を固め、15万人の兵を率いて山南軍へと向かった。120回本の第105回の地の文に「八月初旬」とある。
 
 
 8月中旬 「襄水の戦い」。宋軍、楚軍に勝利
 
山南軍を守る楚の段二は、襄水を渡る宋の補給船団を見つけると諸能に攻撃を命じた。諸能は500隻の軍船で襲撃し、奪った軍需物資を城内に入れようとしたが、逆に宋の船団に配置された伏兵の襲撃を受けた。山南軍は水門より宋軍の攻撃を受けて陥落、諸能は戦死、段二も捕らえられ、3万人近くの楚兵が戦死、1万人ほどが宋に降伏した。120回本の第106回の地の文に「八月中旬」とある。
 
 
 9月 孤立した宋軍が本隊と合流する
 
「伊闕山の戦い」は宋軍の勝利に終わったが、この時に楊志らの率いる1千の騎兵が敵の逆襲にあった。彼らの逃れた先は深い谷の中であったため、楚軍は入り口を封鎖、2千人の兵を監視にまわした。

一方、指揮を執っていた盧俊義は、四方に兵を出して楊志らを探索していたが、解宝が行方を突き止めて盧俊義に報告した。盧俊義はただちに兵を出して楚の封鎖部隊を撃破し、楊志らを救出した。120回本の第108回の地の文に「深秋」とある。晩秋と同意義であり、旧暦の晩秋は9月にあたる。
 
 
 11月 王慶、李俊らに捕らえられる
 
「南豊の戦い」に敗れた王慶は清江まで逃れた。たまたまそこにいた漁師に頼み、船で清江を越えようとしたが、漁師たちは李俊らの変装であった。降将から情勢を聞き出し、退却ルートを想定して待ち伏せていたのである。王慶はそのまま捕らえられ、宋江のもとに引き立てられた。120回本の第109回の地の文に「孟冬」とある。旧暦では11月に相当する。