本編の年表 嘉祐3(1058)年 政和2(1112)年 政和3(1113)年 政和4(1114)年 政和5(1115)年 政和6(1116)年 政和7(1117)年 重和元(1118)年 宣和元(1119)年 宣和2(1120)年 宣和3(1121)年 宣和4(1122)年 宣和5(1123)年(120回) 宣和5(1123)年 宣和6(1124)年
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宣和3(1121)年は第72回から第80回に相当する。主な出来事としては、宋江と李師師の接触、燕青と李逵の話、梁山泊と童貫、高俅らとの戦いなどがある。史実では、この年に「盗賊の宋江」が張叔夜に降伏しているが、『水滸伝』の宋江は翌年に招安を受け入れて帰順している。ただし、いずれも2月であることは一致しており、ある程度の史実の反映が見られる。
また、史実では本年のうちに方臘の乱が鎮圧されている。一方、『水滸伝』では野放しにされ、実際に鎮圧されるのは2年後となるが、本来ならば方臘にあてられるべき戦力が梁山泊との戦いで失われたためであると考えると、つじつまがあってしまうところが興味深い。
なお、史実の方臘の乱の鎮圧にあてがわれた戦力は、遼侵攻のために準備していたものを転用したものである。梁山泊は、その戦力を壊滅させてしまったため、代わりに遼および方臘と戦うことになったと考えると、案外『水滸伝』の作者も歴史的背景を尊重していたのではないかと感じさせる。
4月から6月までの間に童貫が梁山泊を攻めて敗北しているが、時系列が特定できないため、年表に入れていない。7月から10月までの間には高俅が2度の梁山泊侵攻に失敗しているが、これも同様である。また、『水滸伝』の四姦の1人である楊戩は、史実ではこの年に死去しているが、『水滸伝』の時系列とは矛盾が生じるため、本項では取り扱わないものとする。
時系列 干支 西暦 回数 出来事 1月11日 丁未 1月30日 72 宋江と柴進、今後の打ち合わせをする 1月12日 戊申 2月1日 72 柴進と燕青、開封府に潜入する 1月13日 己酉 2月2日 72 睿思殿の一件が発覚、開封府の警戒強まる 1月14日 庚戌 2月3日 72 宋江、開封府に潜入する 1月15日 辛亥 2月4日 72 宋江、再度開封府に潜入する 1月16日 壬子 2月5日 73 李逵、狄太公の娘と王小二を殺す 1月19日 乙卯 2月8日 皇宋十朝 方臘軍、秀州に侵攻する 1月25日 辛酉 2月14日 宋史 宋、花石綱を廃止する 1月 2月 宋史 方臘軍、婺州および衢州を制圧する 2月9日 甲戌 2月27日 宋史 宋、方臘を招安する 2月30日 壬午 3月30日 通鑑長編 方臘軍、處州に侵攻する 3月24日 庚午 4月13日 74 燕青、相撲大会の出場を申し出る 3月25日 庚申 4月14日 74 燕青、泰安州に向かう 3月26日 辛酉 4月15日 74 燕青、泰安州に到着する 3月27日 壬戌 4月16日 74 燕青、任原を偵察する 3月28日 癸亥 4月17日 75 相撲大会当日。梁山泊、泰安州を襲撃する 4月 5月 75 梁山泊、宋からの招安を拒否する 6月 7月 78 高俅、前衛の騎兵を出陣させる 7月 8月 78 高俅、梁山泊に向けて出陣する 冬 冬 80 高俅、3度目の梁山泊侵攻の準備を終える 11月中旬 12月上旬 80 高俅、3度目の梁山泊侵攻開始
1月11日 宋江と柴進、今後の打ち合わせをする
宋江と柴進は、開封府の城門に入る前に宿屋で今後の打ち合わせをした。その結果、先に柴進と燕青が開封府城内に入って様子を探ることとなった。第72回の地の文に「正月十一日」とある。
1月12日 柴進と燕青、開封府に潜入する
柴進と燕青は宋江に先んじて開封府に潜入た。燕青が王班直を酒楼に誘い出して酔い潰すと、柴進は彼の装束を奪って班直官に成りすまし、王宮に忍び込んだ。宮中内の睿思殿に世を騒がす賊として宋江、田虎、王慶、方臘の名が記されているのを見た柴進は、宋江の名だけを切り取って王宮から出ると、寝込んでいる王班直に装束を返して開封府から脱出した。第72回の地の文に「次日」とある。1月11日の「次日」でであるため、1月12日の出来事ということになる。
田虎と王慶と言えば120回本の追加部分の印象が強い。しかし、100回本でも彼らは名前だけ登場している。と言うよりも、ここで名前だけ出ていた反逆者のエピソードを追加したのが120回本であると言える。なお、この4人が反乱を起こした時期であるが、方臘は史実において前年の宣和2(1120)年11月22日に蜂起したと見なされている。
王慶は120回本の第105回において、宣和元(1119)年に反乱をしたことが記されている。田虎については120回本の第98回の瓊英の生い立ちの描写から計算していくと重和元(1118)年に反乱を起こしたことになる。ちょうど1年おきに120回本で官軍に倒された順番で蜂起しているわけである。
宋江および梁山泊については各地を襲撃する描写が多い分、朝廷に反乱と認識された起点を絞ることは逆に難しい。しかし、上記の3人が1年ごとに反乱を起こしている以上、ここは政和7(1117)年に定めたい。梁山泊軍が江州路を襲撃し、二度に渡って宋江を救出した年である。いずれにしても、すべて宣和3(1121)年よりも前の出来事として設定されており、時系列に矛盾のない描写となっている。
1月13日 睿思殿の一件が発覚、開封府の警戒強まる
睿思殿の「山東宋江」の字が切り取られているのが発見されると、王宮では警戒態勢が強められた。人づてに状況を聞かされた王班直は前日のやり取りの意味したところを悟ったが、保身のために黙っていた。 第72回の地の文に「次日」とある。1月12日の「次日」でであるため、1月13日の出来事ということになる。
1月14日 宋江、開封府に潜入する
宋江、柴進、戴宗、燕青の4人は14日の夕方に開封府へと潜入した。燕青は徽宗の寵愛する芸妓の李師師と接触し、宋江らと引き合わせたが、徽宗がやってきたために立ち去った。第72回の地の文に「十四日」とある。
1月15日 宋江、再度開封府に潜入する
元宵節当日、宋江、柴進、燕青、戴宗、李逵は再度開封府に潜入し、戴宗と李逵を見張りにおいて再び李師師と対面した。今回も徽宗がやってきたため、途中で立ち去ることになったが、実際には物陰に隠れて様子を伺い、恩赦を願い出ようとした。
一方、李逵は徽宗に同行していた楊戩に咎めだてられると、彼を殴り、李師師の家に火をつけた。そのために開封府城内は混乱し、城内を警護していた高俅の兵が現場に出向いた。潜入していた梁山泊の頭領たちは宋江らを探しながら高俅の兵と戦っていたが、このような事態になることを予測して呉用が派遣した梁山泊の増援と合流して開封府を脱出することができた。
第72回の地の文に「次日正是上元節」とある。1月14日の「次日」であるから1月15日となる。なお、上で楊戩と書いた人物に対しては、実際には「楊太尉」としか名が記されていない。「楊太尉」の名は第80回で高太尉、蔡太師、童樞密とともに登場しており、他の3人がそれぞれ高俅、蔡京、童貫であることから、残る「四奸」の1人である楊戩のことであると思われるだけである。ちなみに、第100回では、それぞれが名前の方で登場している。
「楊太尉」が楊戩であるとした場合、楊戩は『水滸伝』で出番はほとんどなく、よって梁山泊ともほとんど関係しないが、ここで梁山泊の李逵に殴られたということで梁山泊を恨む動機ができ、他の3人と組む必然性ができる。
『宋史』の22巻、「徽宗本紀」によると、「四奸」のうち、蔡京は大觀元(1108)年、童貫は政和2(1112)年、高俅は政和7(1117)年に太尉となったことが記されているが、楊戩については太尉になったという記録はない。
1月16日 李逵、狄太公の娘と王小二を殺す
開封府の騒動の蔡、梁山泊の本隊からはぐれた燕青と李逵は、陳留県の四柳村まで逃れた。ここで富豪の狄太公の家に泊まったが、狄太公は娘が魔物に憑かれたことで悩んでいた。李逵は羅真人の弟子と偽って魔物退治を引き受けたが、実際には狄太公の娘が村の王小二と密通するための狂言であった。李逵は2人を惨殺し、刈り取った首を狄太公の前にさらすと、感謝と接待を強要した。第73回の地の文に「次日」とある。1月15日の「次日」であるため、1月16日の出来事ということになる。
1月19日 方臘軍、秀州に侵攻する
方臘軍は秀州の崇徳県を制圧、さらに秀州全体に勢力を広げた。『皇宋十朝綱要』の11巻に「乙卯」とある。『宋史』の88巻(志41)によると、秀州は4県から成り、人口は約22万人である。『水滸伝』では第94(114)回に登場する。方臘軍の段愷が守りを固めていたが、蘇州を攻略した宋軍に包囲されて降伏、宋江に杭州の情報を提供した。
1月25日 宋、花石綱を廃止する
政府は方臘の乱を鎮静化するため、発端となった花石綱を取り仕切る蘇州と杭州の造作局(花石綱を取り仕切る役所)と御前綱運(花石綱を運搬する船団)を停止、事実上花石綱を廃止した。『宋史』の22巻(本紀22)に「辛酉」とある。また、『宋史』の470巻(列伝229)によると、花石綱を先導した朱勔も罷免されているが、こちらは後に復帰している。
1月 方臘軍、婺州および衢州を制圧する
方臘軍は婺州と衢州を支配下に収めた。また、この時に衢州を守っていた彭汝方が戦死している。『宋史』の22巻(本紀22)に記述がある。『宋史』の88巻(志41)によると、婺州は7県からなり人口は約26万人。衢州は5県からなり人口は約28万人である。
『水滸伝』では、第99(119)回に登場する。方臘が捕らえられた時点で残っていた呉の領土であるが、方臘が捕縛された後に降伏している。
2月9日 宋、方臘を招安する
方臘の乱の勃発に対し、宋の朝廷では方臘の招安を試みた。その結果に関する情報はないが、その後も方臘の反乱軍が勢力を拡大し続けたところを見ると、失敗したことに間違いはないはずである。
『宋史』の22巻(本紀22)に「甲戌、降詔招撫方臘」とある。「招撫」は「招安」と同じ意味である。もちろん、『水滸伝』では触れられていない一件であるが、この2ヶ月ほど後に梁山泊も招安を拒絶しているという対比と、この一件が『水滸伝』の世界でもあったとした場合、一つ間違えれば方臘軍が官軍として梁山泊軍と戦っていたという展開もあり得たかもしれないと考えると面白いため、一応取り上げておくこととする。
また、この一件が『水滸伝』でもあったとした場合、招安の際に蔡京や高俅の部下たちが梁山泊に対して居丈高に振る舞ったことが単なる傲慢の表れではない可能性が出てくる。つまり、方臘を丁重に迎えようとしたのが失敗したため、梁山泊に対しては逆に威圧的な態度に出たのかもしれないということである。
2月30日 方臘軍、處州に侵攻する
方臘軍は處州に侵攻し、余勢をかって信州にも攻め寄せた。『通鑑長編紀事本末』の141巻に「乙未」とある。史実では、この辺りが方臘の攻勢限界点であり、以降は官軍に押されて守勢に回る。その最大版図は『宋史』の468巻(列伝227)によれば6州52県である。この6州とは睦州、歙州、杭州、秀州、婺州、衢州、宣州を完全制圧したことであると思われる。
一方、『水滸伝』の第90(110)回によると、方臘の最大版図は8州25県におよぶ。この8州とは睦州、歙州、杭州、宣州、蘇州、湖州、常州、潤州である。しかし、第93(113)回では秀州、第99(119)回では婺州と衢州も支配下に収めていることが明らかとなる。史実に対して『水滸伝』の官軍の侵攻は2年後となったため、その分だけ方臘が勢力を拡大したと考えられる。
史実の6州52県は6つの州に所属する52県を支配下に収めたということであると思われるが、これを『水滸伝』の8州25県に適用すると明らかに州に対する県の数が合わない。『水滸伝』の場合は、8州を完全制圧し、さらに周辺の州の25県を支配下に置いたものと解釈するべきであると考えられる。
3月24日 燕青、相撲大会の出場を申し出る
梁山泊は、泰安州に向かう途中の武芸者の一団を拘束した。彼らは泰安州で開催される武芸大会に向かう途中であった。一団は宋江の命で解き放たれたが、彼らが力士の任原の強さを語ったことにより、燕青は相撲の試合に出ることを申し出た。第74回の地の文に「三月二十四日」と明記されている。
3月25日 燕青、泰安州に向かう
燕青は相撲大会に出場する許可が下りたため、梁山泊を出て泰安州に向かった。夕刻になると後を追ってきた李逵が追いついて同行を願い出たため、燕青は騒動を起こさないように3つの約束を誓わせた。第74回の地の文に「次日」とある。3月24日の「次日」であるため、3月25日の出来事ということになる。
3月26日 燕青、泰安州に到着する
燕青は泰安州に到着すると、任原の強さを称えた標柱の額を叩き壊して任原を挑発した。その日のうちに宿をとると、任原の弟子たちが様子を探りに来たが、深入りはせずに帰っていった。第74回の地の文に「次日」とある。3月25日の「次日」であるため、3月26日の出来事ということになる。
3月27日 燕青、任原を偵察する
燕青は見物がてらに任原の宿舎に出向き、様子を伺った。先日の燕青の挑発を見ていた任原の弟子が知らせると、任原は聞こえよがしに怒号を発したたため、燕青は撤収した。第74回の地の文に「次日」とある。3月26日の「次日」であるため、3月27日の出来事ということになる。
3月28日 相撲大会当日。梁山泊、泰安州を襲撃する
相撲大会当日、燕青は大方の予想を覆して任原を打ち負かした。その後、賞品を奪い取ろうとする任原の弟子たちと観客の争いがあり、李逵の介入によって混乱は激化した。燕青と李逵は逃走し、彼らを迎えに来た盧俊義率いる梁山泊軍と合流した。
その途上で李逵がはぐれてしまい、寿張県に流れ着いた。李逵はあちこちに姿を現して県内を騒がせたが、早々に穆弘が見つけて連れ戻したため、惨劇を免れることができた。第74回の地の文に「三月二十八日」と明記されている。
泰安州および寿張県はいずれも現在の山東省にある。現在では泰安州は泰安市に相当し、その南部に寿張県を前身の1つとする済寧市がある。なお、泰安州は明代の行政区分であり、宋代には乾封県、後に改めて奉符県と呼ばれていた。
4月 梁山泊、宋からの招安を拒否する
度重なる梁山泊の暴挙に業を煮やした宋の朝廷では、彼らを帰順させて遼への備えに当てることとした。陳宗善が使者となって梁山泊に向かったが、梁山泊を見下す副官たちの態度と梁山泊を高く売り込むために招安を失敗させたい呉用の目論見が皮肉な一致を見せ、交渉は決裂した。第75回で読み上げられた招安の詔書の中に「四月」とある。
6月 高俅、前衛の騎兵を出陣させる
童貫の軍が梁山泊に大敗を喫した後、今度は高俅が梁山泊に侵攻することとなった。高俅は各地から兵を集めて軍を編成したがなかなか出立せず、徽宗から促されると、先に騎兵を出陣させて体裁を取り繕った。
第78回の描写によると、実際に高俅本人が出撃したのがこれより1か月後の「初秋」である。「初秋」は旧暦の7月ころであるため、その1ヶ月前ということになると6月ごろの出来事ということになる。
7月 高俅、梁山泊に向けて出陣する
高俅は、前衛を先に出陣させてからほぼ1か月後に出陣の儀式を行い、梁山泊に向かった。第78回の地の文に「初秋」とある。「初秋」は旧暦の7月ごろに相当する。
冬 高俅、3度目の梁山泊侵攻の準備を終える
2度にわたる梁山泊攻撃が失敗に終わった後も高俅の戦意は衰えず、3度目の攻撃の準備を整えた。第80回の地の文に「冬」とある。旧暦の冬は10月から12月までであるが、実際に侵攻を開始したのが後述の11月中旬であるため、10月から11月中旬までの間の出来事となる。
11月中旬 高俅、3度目の梁山泊侵攻開始
3度目の侵攻の準備を終えた高俅は、葉春の進言で建造した大海鰍船の艦隊を率いて梁山泊に海戦を挑んだ。第80回の地の文に「十一月中時」とある。「中時」は「中旬」のことである。