政和7(1117)年は第33回から第45回までが中心となる。青州および江州における宋江の活動がほとんどであり、描写も細かい。年末には楊雄と石秀が主役となるが、こちらは時系列を特定できる描写が極端に少なくなる。

第44回によると、楊林と鄧飛が再開した半年前に楊林らは流刑中の裴宣を救出し、裴宣を頭領とする山賊団を再結成している。再会したのが7月から9月の間であるため、裴宣は半年前の1月から3月の間に救出されたことになるが、時系列を特定できないため、年表に入れていない。

『宋史』の21巻(本紀21)によると、高俅は本年の1月29日(1117年2月14日)に太尉になっている。『水滸伝』冒頭における高俅の殿師府太尉就任の元ネタであると思われるが、『水滸伝』と史実とでは時系列にずれがあるため、『水滸伝』に適した政和2(1112)年に移した。 
 
 
 時系列  干支  西暦  回数  出来事
 1月15日  甲辰  2月18日  33  元宵節。宋江、劉高に捕らえられる
 1月16日  乙巳  2月19日  33  劉高と黄信、花栄捕縛の策を練る
 1月17日  丙午  2月20日  33  清風山の山賊、青州の護送隊を襲撃する
 1月18日  丁未  2月21日  34  秦明、清風山に向けて進軍する
 1月19日  戊申  2月22日  34  清風山の戦い。秦明、山賊軍に敗れる
 1月20日  己酉  2月23日  34  清風山の山賊、青州を襲撃し、秦明に罪を着せる
 1月21日  庚戌  2月24日  34  清風塞、清風山の山賊の襲撃を受ける
 1月22日  辛亥  2月25日  35  宋江、花英の妹を秦明にあてがう
 2月3日  辛酉  3月7日  35  宋江ら、清風山を捨て、梁山泊に向かう
 2月5日  癸亥  3月9日  35  徽宗、皇太子を立て、天下に恩赦を出す
 2月9日  丁卯  3月13日  35  宋江ら、対影山で呂方と郭盛に出会う
 2月10日  戊辰  3月14日  35  呂方と郭盛、宋江らに合流する
 2月11日  己巳  3月15日  35  石勇、宋江の実家に泊まる
 2月12日  庚午  3月16日  35  宋江と燕順、酒場で石勇と出会う
 2月13日  辛未  3月17日  36  時文彬、宋江を取り調べる
 2月14日  壬申  3月18日  36  晁蓋、清風山からの一行を受け入れる
 2月15日  丁巳  3月19日  35  梁山泊、序列の再編成を行う
 4月14日  乙卯  5月16日  36  宋江、江州路に流刑となる
 4月15日  丙辰  5月17日  36  宋江、梁山泊に迎えられる
 4月16日  丁巳  5月18日  36  宋江、梁山泊を出る
 5月上旬    6月上旬  36  宋江、江州路に到着、牢城の懲役囚となる
 5月下旬    6月下旬  38  宋江、戴宗と出会う
 6月上旬    7月上旬  39  戴宗、梁山泊に捕らえられる
 6月下旬    7月下旬  39  梁山泊、蔡京の偽手紙を作る
 7月11日  丁酉  8月10日  40  戴宗、江州に戻り偽手紙を提出する
 7月12日  戊戌  8月11日  40  蔡得章、戴宗を捕らえる
 7月13日  己亥  8月12日  40  蔡得章、宋江と戴宗の処刑の日程を決める
 7月18日  甲辰  8月17日  40  梁山泊軍、江州を襲撃し、宋江らを救出する
 7月19日  乙巳  8月18日  41  黄文炳、江州で蔡得章と今後の対策を協議する
 7月20日  丙午  8月19日  41  宋江、無為軍襲撃の手筈を整える
 7月21日  丁未  8月20日  41  宋江、無為軍を襲撃し、黄文炳を捕らえて食す
 7月24日  庚戌  8月23日  41  黄門山の山賊団、梁山泊軍を出迎える
 7月25日  辛亥  8月24日  41  黄門山の山賊団、梁山泊に合流する
 9月下旬    10月下旬  42  王押司の二周忌を営む
 9月    10月  43  李逵の母が虎に食われる
 10月下旬    11月下旬  45  石秀、胡頭陀の行動に疑念を抱く
 11月下旬    12月下旬  45  石秀、潘巧雲の浮気を突き止め、楊雄に報告する
 年内      (98)  田虎、仇申を殺す
 
 
 1月15日 元宵節。宋江、劉高に捕らえられる

花栄と再会した宋江は、元宵節の日に市内の見物に出かけた。しかし、以前に清風山で助けた劉高夫人に見とがめられ、逃走したところを捕らえられた。劉高の尋問に対し、宋江は偽名を名乗ったが、花栄もまた別の偽名で宋江の引き渡しを求めたことから話はこじれた。

劉高は引き渡しを拒否したが、花栄は武力行使で宋江の身柄を強奪しただけでなく、取り返しに来た劉高の兵士を追い払った。その後、宋江は花栄に追及が及ぶのを避けるため、1人で清風山に逃走したが、先んじて手を打っていた劉高によって捕らえられた。

第33回の地の文に「元宵節」とある。これは1月15日に開かれる祭りのことである。
 
 
 1月16日 劉高と黄信、花栄捕縛の策を練る

劉高は花栄の謀叛を府尹の募容彦達に報告した。募容彦達は黄信を劉高の元に遣わし、2人で花栄を捕らえるための策を練った。その結果、翌日に花栄を酒宴の席に招き、そのまま捕らえてしまうこととした。

第33回の地の文に「次日」とある。1月15日の「次日」なので1月16日ということになる。
 
 
 1月17日 清風山の山賊、青州の護送隊を襲撃する 

朝のうちに黄信と劉高は花栄を招き寄せて捕らえ、すでに捕縛していた宋江とともに募容彦達のもとに送ることとした。二更时分(10時)、清風山を通りかかった護送隊は山賊の襲撃を受けた。黄信は逃走したが、花栄と宋江の身柄は奪われ、劉高も捕らえられて処刑された。黄信から報告を受けた募容彦達は、兵馬統制の秦明を呼び寄せると、清風山の山賊の討伐を命じた。

第33回の地の文に「次日」とある。1月16日の「次日」なので1月17日ということになる。
 
 
 1月18日 秦明、清風山に向けて進軍する

秦明は騎兵百人と歩兵4百人を率いて募容彦達の元に参じた。募容彦達は兵士たちをもてなし、秦明にも激励の言葉をかけて彼らを見送った。清風山の山賊団は、清風塞を襲撃する計画を立てていたが、完全に不意を突かれる形となった。しかし、花栄の進言により、山中に敵を誘い込んで迎撃することとした。

第34回の地の文に「当日清早(早朝)」とある。この前の場面で1月17日の深夜に募容彦達が秦明を呼び寄せているため、そこから夜が明けて1月18日になっていることが分かる。
 
 
 1月19日 清風山の戦い。秦明、山賊軍に敗れる

秦明は五更(4時)ころに清風山についた。清風山の山賊たちは山地に秦明軍を引き込んで翻弄した。戦いは深夜まで続いたが、秦明の軍は壊滅し、秦明も捕らえられた。

第34回の地の文に「次日」とある。1月18日の「次日」であるため、1月19日ということなる。
 
 
 1月20日 清風山の山賊、青州を襲撃し、秦明に罪を着せる

宋江は捕らえた秦明を歓待しつつ、裏では秦明の鎧を着せた偽物を立てて青州を襲撃させた。そのため、募容彦達は秦明の家族を処刑した。それを知らない秦明は辰牌(8時)ごろに清風山を出て已牌前後(12時ごろ)に青州に戻ったが、先の襲撃の惨状を目撃し、募容彦達には反逆者として糾弾された。

逃げ延びた秦明は宋江と再会したが、宋江から全て計算づくの陰謀であったことを明かされた。全てを失った秦明は宋江に服従を余儀なくされ、花栄の妹をあてがわれることになった。書いていて胸糞が悪くなるが、問題は、後にこれ以上に眼をそむけたくなるような展開が待っているということである。

第34回の地の文に「三更时分」とある。これは0時前後ということであり、つまりは1月19日から翌日になったということである。
 
 
 1月21日 清風塞、清風山の山賊の襲撃を受ける

秦明は単身清風塞に入り、黄信を説き伏せて内応させた。清風山の山賊は、これに乗じて清風塞に侵入し、劉高の邸宅を襲撃、虐殺を行い、劉高夫人を拉致した後に殺害した。第35回の地の文に「次日」とある。1月20日の「次日」であるため、1月21日となる。
 
 1月22日 宋江、花英の妹を秦明にあてがう

宋江は、謀殺した秦明の妻の代わりに花栄の妹を秦明にあてがった。ちなみに秦明は6年後の宣和5(1123)年に戦死しているが、2人の間に子供は生まれなかった。秦明の心情を考慮する材料になるかもしれない。

第35回の地の文に「次日」とある。1月21日の「次日」であるため、1月22日となる。
 
 
 2月3日 宋江ら、清風山を捨て、梁山泊に向かう

募容彦達は朝廷に前日の一件を報告、大規模な討伐軍の編成を依頼した。それを知った宋江らは先んじて清風山を捨て、梁山泊に向かうこととした。道中では宋江の立案により、逆に討伐軍を装うことで通過した。

第35回では、前述の花栄の妹を秦明にあてがった際の宴が「三五日」続いたとしている。その後、「五七日」後に知らせを受けたため、いずれも中央地を取ると、それぞれ4日と6日、合わせて10日後となる。本年度の1月は29日までであるため、2月3日の出来事ととなる。
 
 
 2月5日 徽宗、皇太子を立て、天下に恩赦を出す

徽宗は長子の趙桓(欽宗)を皇太子に任命し、天下に恩赦を出した。そのため、宋江の父の宋大公は、逃亡中の宋江を呼び戻して裁判を受けさせようと目論んだ。『宋史』の第23巻(本紀23)に「(政和)五年二月乙巳、立為皇太子、大赦天下」とある。「乙巳」は、5日に相当する。つまり、史実では政和5(1115)年2月5日の出来事だということである。ここでは月日を採用し、年代は時系列に合わせるものとした。

なお、『宋史』の第21巻(本紀21巻)によると、「乙巳」は皇太子を指名した日であり、実際に皇太子を任命して大赦を出したのは「甲寅(14日)」であるという。こちらの方が正確であると思われるが、『水滸伝』の時系列と合わないため、2月5日の方を採用する。
 
 
 2月9日 宋江ら、対影山で呂方と郭盛に出会う

対影山を通りかかった宋江らは、呂方と郭盛が決闘している所に出くわし、彼らを仲裁した。呂方らは同意し、その日は呂方が宋江らを歓待した。

第35回の地の文に「五七日」とある。これを中央値の6日とし、2月3日の6日後と考えると、2月9日ということになる。
 
 
 2月10日 呂方と郭盛、宋江らに合流する

呂方に続いて郭盛が宋江らを歓待した。その後、宋江が梁山泊との合流を勧めると、呂方と郭盛は同意し、対影山を出ることにした。第35回の地の文に「次日」とある。2月9日の「次日」であるため、2月10日となる。
 
 
 2月11日 石勇、宋江の実家に泊まる

石勇は宋江の名声を慕って彼の実家を訪れたが、宋江は逃走中で会うことができなかった。一方、宋太公も宋江を呼び戻そうとしていたため、石勇は宋清から宋江の居場所を教えられるとともに、宋江宛の手紙を託された。

第35回で宋江と石勇が酒場で遭遇した際、「小人在彼只住的一夜」と語っている。この場面は後述の2月11日にあたる。そのため、2月10日に石勇は宋江の実家を訪れて一泊し、翌日に宋江らと遭遇したことになる。
 
 
 2月12日 宋江と燕順、酒場で石勇と出会う

宋江は同行者が増えすぎたため、燕順とともに先行して梁山泊に事情を知らせることにした。しかし、「晌午(昼ごろ)」に途中で立ち寄った酒場で石勇と出会い、彼から手渡された宋清からの手紙で父の死を知らされたため、1人で故郷に帰ることにした。残された燕順と石勇は宿を取り、翌日一行に報告することとした。

一方、宋江はその日の「申牌(16時)」ころには実家に戻り、父の死は、彼を呼び寄せるための嘘であることを知った。宋江は、2月5日に出された大赦を利用して裁判を受けることに決め、そのまま実家に滞在したが、「一更(午後6時から午後8時半)」には宋江の帰郷を知った趙能と趙得が家を包囲し、宋江は捕縛された。

第35回の地の文に「兩日」とある。2月10日より「2日が過ぎ」たことになるため、2月12日の出来事と考えられる。なお、2月5日の項でも触れているが、史実では2月5日に皇太子が「任命」されて大赦が出されたとする記述と皇太子が「指名」されたのが2月5日、「任命」されて大赦が出されたのが2月14日とする記述が混在している。『水滸伝』の時系列的には、2月14日を採用すると2月12日よりも後となり時系列が合わないため、2月5日の方を採用している。
   
 
 2月13日 時文彬、宋江を取り調べる

鄆城県の知県の時文彬は、五更(4時)より連行された宋江を取り調べた。宋江は梁山泊と内通していた事実を伏せたうえで閻婆惜殺しを認めたために投獄されたが、恩赦が出ていることと時文彬自身が宋江に好意を持っていたため、手厚く遇された。

一方、燕順と石勇は辰牌时分(8時)に一行に合流して事情を話した。一行は宋江を欠いたまま旅を続け、その日のうちに梁山泊に到着、見張りの林冲に事情を話し、梁山泊に迎え入れられた。宋江側の行動については、第36回の地の文に「次早(翌日早朝)」とあり、2月12日の「次早」であるため、2月13日の出来事ということになる。梁山泊側も同様に第36回の地の文に「次日」とある。

なお、この時点で宋江は閻婆惜殺しだけでなく、生辰綱を強奪した晁蓋の逃走を助けたこと、清風山の山賊に青州への襲撃を指示したこと、秦明を陥れ、彼の家族を死に至らしめるとともに山賊へと身を貶めさせたこと、清風塞襲撃の指揮を執り、劉高の邸宅で虐殺を行ったことなど、閻婆惜殺しが霞むレベルの悪事を繰り返しているわけであるが、これらはうまく隠し通している。彼がこれらの事件についてどのような感情を抱いてたのかは全く分からない。

特に山賊の仲間に引き込むために秦明を陥れつつ、自分は恩赦の機会があれば即座に山賊から足を洗うということについて、秦明に対して何か思うところはなかったのかということについてはぜひ知りたいところであるが、それを察する情報すら全くない。このような描写不足を繰り返すことにより、宋江の異常性が際立ってくる。
 
 
 2月14日 晁蓋、清風山からの一行を受け入れる

辰牌时分(8時)に呉用が一行の元を訪れ、晁蓋の元に案内した。一行はそれぞれが誓いを立てて梁山泊の一員となり、宴が開かれた。その途中、花栄は飛んでいる雁の群れの中から1羽を射抜き、晁蓋らを驚嘆させた。第35回の地の文に「第二日」とある。「第一日」は2月13日であるため、2月14日の出来事ということになる。
 
 
 2月15日 梁山泊、序列の再編成を行う

宴の後、梁山泊では清風山からの一行を加えた序列の再編成が行われた。この時点では花栄(最終的に第9位)の序列は秦明(第7位)よりも高く、黄信(第38位)は阮氏3兄弟(第27、29、31位)よりも上位であった。第35回の地の文に「次日」とある。2月14日の「次日」であるため、2月15日の出来事ということになる。
 
 
 4月14日 宋江、江州路に流刑となる

宋江は60日の拘留期間が終わり、鄆城県から済州に送られて判決を受けた。その結果、杖刑20杖と江州路への流刑と決まった。父の宋太公が賄賂を使い、過ごしやすい地に流されるように配慮したのである。判決が出たその日のうちに宋江と護送の役人である張千と李万は済州を出発した。夕暮れに一行は宿で進路について相談し、梁山泊を避けて間道を通ることにした。

第36回の地の文に「待六十日限滿」とある。2月13日から60日が過ぎたということである。本年度の旧暦の2月は30日までなので2月13日からは17日間、3月は29日間を経ることとなるため、4月14日が60日目にあたる。
 
 
 4月15日 宋江、梁山泊に迎えられる

宋江たちは、五更(午前3時から5時あたり)に宿を出た後、梁山泊を避けて間道を通った。しかし、梁山泊では宋江の身柄を確保すべく四方に網を張っていたため、劉唐に道を遮られ、梁山泊へと招待された。晁蓋は一行を歓待し、宋江には梁山泊に留まるように勧めたが、宋江は父の言いつけを守り、江州路に行くことを選んだ。第36回の地の文に「次日」とある。4月14日の「次日」であるため、4月15日となる。
 
 
 4月16日 宋江、梁山泊を出る

宋江は晁蓋らに歓待された翌日に梁山泊を出て江州路に向かうことにした。その際、呉用から江州路の院長である戴宗の話を聞かされ、彼に当てた手紙を受け取った。第36回の地の文に「次日」とある。4月15日の「次日」であるため、4月16日となる。
 
 
 5月上旬 宋江、江州路に到着、牢城の懲役囚となる

宋江らは4月16日より「半月之上」に掲陽嶺に到着した。途上の李立が経営する酒屋に立ち寄り、毒を盛られて殺されかけたが、李俊に救われて一命をとりとめた。その「次日」に李立の家で李俊らの歓待を受け、「數日」間李俊の家に滞在した後、その日のうちに掲陽鎮に到着した。

掲陽鎮では薛永と穆春のトラブルに巻き込まれ、知らずに穆春の家に宿を取ったが、穆春が帰ってきたため夜間に逃亡した。宋江らは張横の渡し船で川を越えようとするが、実は盗賊であった張横に命を取られかかったが、李俊のとりなしで和解、追いついた穆春と兄の穆弘の兄弟も李俊の仲裁で矛を収めた。この頃に五更(午前3時から午前5時)となっており、「天色晚了(夜が明けた)」ことが分かる。

その日は薛永も招いて穆弘の家で歓待を受け、「了三日(3日間)」穆弘の家に滞在、「次日」に宋江らは出立し、おそらくその日のうちに江州路の牢城に到着したたものと思われる。 これまでの日数を合わせると4月16日より15日、1日、数日、1日、3日、1日、合わせて21日以上が経過したことになり、5月上旬に牢城に到着したものと考えられる。

なお、第39回で宋江が叛意を表す詩を書きつけ、黄文丙と蔡得章が宋江の身柄を調べた際の描写で「五月」に収容されたことが分かるため、ここでも時系列は一致している。
 
 
 5月下旬 宋江、戴宗と出会う

宋江は牢役人たちに賄賂をばらまいて彼らの敬意を買ったが、戴宗にだけは賄賂を贈らなかった。そのため、戴宗が乗り込んできたが、宋江は戴宗と呉用からの手紙を渡して意気投合した。

この日のうちに宋江は李逵と出会い、李逵は魚河岸で張順と決闘し、その後は宋江、戴宗、李逵、張順の4人で酒を酌み交わしている。第37回の地の文に「了半月之間」とある。宋江が江州路に到着した5月上旬から半月後ということであるため、5月下旬の出来事であると考えられる。
 
 
 6月上旬 宋江、叛詩を記し、捕らえられる

宋江が戴宗らと宴を開いた「次日」、張順は宋江に魚を届けに来たが、宋江は腹を下して休養中であった。その「次日」には戴宗と李逵が見舞いに来た。

「了五七日」して体調が回復した宋江は、「了一日」してから戴宗、李逵、張順のもとに返礼に行こうとしたが、戴宗は留守、李逵は住所不定であったため、張順の家に赴く途中で潯陽楼に立ち寄り酒を飲んだ。この時、店の壁に詩を落書きしたが、「他時若遂凌雲志、敢笑黃巢不丈夫(意訳すると『志を遂げたならば、黄巣ですら未熟と笑おう』)」と最後に書きつけ、そのうえで自分の名前も記した。

翌日に目覚めた宋江は「昨日」の酒の酔いで気分が悪く、その日は寝ていた。しかし、同日に潯陽楼に立ち寄った黄文炳は宋江の詩を見つけると、明確な叛意の表れとしてメモを取り、「次日」に蔡得章に報告した。蔡得章はただちに戴宗を通じて宋江を捕らえようとしたが、戴宗は先んじて宋江に事情を明かし、狂人のふりをしてやり過ごすように勧めた。

しかし、黄文炳は偽装を見破り、宋江を捕らえて拷問にかけた。その結果、宋江は詩を記したことを白状したため、蔡京に事情を知らせて指示を仰ぐことにした。これらはいずれも第39回内の出来事である。日数の経過をまとめると、1日、1日、約6日、1日、1日となり、およそ10日の間の事件ということになる。直前の時系列が5月下旬であるため、合わせると6月上旬の出来事と考えるのが妥当である。

また、蔡得章が戴宗を使者に選んだ際、「慶賀我父親六月十五日生辰。日期將近」と言っていることから、この段階で6月15日の少し前であることが分かり、この点でも時系列は一致する。さらに、その少し前の蔡得章と黄文炳のやり取りで黄文炳が戴宗を使者として推薦した際、「只消旬日、可以往回」と言っている。「旬日」は10日であり、10日で往来できるということであるため、この時は6月10日以前であると考えられる。

ちなみに、宋江の詩であるが、唐の反逆者で結局は失敗した黄巣の名前を出し、そのうえで彼の上を行こうとする意志を示していることは、何も考えずに読んでも分かる。つまり、黄文炳のこじつけや悪意的な解釈で叛意を引き出したというのではなく、純粋に野心を書き記しているということである。これは、宋江が常日頃から宋への忠義を明らかにし、帰順を願っているという設定とも矛盾しており、なおさら訳が分からない。

ついでに言うと、この事件には歴史的な元ネタがあるように思われる。哲宗の治世の初期、宣仁皇后の垂簾聴政時代に旧法派が主導権を握っていた際、新法派の蔡確は地方官に左遷させられたことを嘆いて詩を記した。それは唐の則天武后時代、彼女に反発して地方に飛ばされた官吏に共感するものであったため、旧法派の呉処厚が宣仁皇后を則天武后になぞらえたものとして注進、結果として蔡確は気候の悪い南方の新州への流刑に処され、流刑先で病死したというものである。
 
 
 6月上旬 戴宗、梁山泊に捕らえられる
 
宋江は潯陽楼で酒を飲んだ際、店の壁に詩を落書きした。その内容は「他時若遂凌雲志、敢笑黃巢不丈夫(意訳すると『志を遂げたならば、黄巣ですら未熟と笑おう』)」という過激なものであった。黄文炳が見とがめて蔡得章に報告したため、宋江は捕らえられた。

蔡得章らは蔡京の指示を仰いで宋江の処遇を決めることにした。戴宗が使者に選ばれて開封府に旅立ったが、途上で朱貴の酒場に立ち寄り、毒酒を盛られて昏倒した。朱貴は戴宗の所持品を探ったが、蔡京宛ての書簡を見つけて宋江の危機を知り、戴宗を目覚めさせて事情を聞いた。戴宗は梁山泊に登って晁蓋らに状況を説明し、呉用が策を立てることとした。

第39回の地の文に「六月初旬」とある。ちなみに、5月下旬から時系列をたどっていくと、1日目に宋江は体調を崩し、2日目に戴宗と李逵が見舞いに来ている。宋江の体調は「了五七日」して回復しているが、中央地を取って6日とすれば9日目ということになる。10日目に宋江は潯陽楼で落書きし、11日目に逮捕、12日目に戴宗が使者に任命され、その2日後、つまり14日目に朱貴に毒酒を盛られている。合わせるとおよそ半月間ということになり、6月上旬の範疇に入るものである。

また、蔡得章が戴宗を使者に選んだ際、「慶賀我父親六月十五日生辰。日期將近」と言っていることから、この段階で6月15日の少し前であることが分かる。

その少し前の蔡得章と黄文炳のやり取りでも、黄文炳が戴宗を使者として推薦した際に「只消旬日、可以往回」と述べている。「旬日」は10日であり、10日で往来できるということであるため、6月10日以前、つまり6月上旬の会話であることが
 
 
 6月中旬 梁山泊、蔡京の偽手紙を作る

「次日早辰」、蔡得章は戴宗を呼び、東京の蔡京に誕生日の贈り物を届けるように命じた。戴宗はその日のうちに出立、夕暮れには宿を取った。その「次日」までは何事もなく先に進むことができた。

しかし、次の「次日」、つまり3日目に朱貴の酒場に立ち寄り、痺れ酒に引っかかった。ちなみに、ここで「六月初旬」と時期が明らかにされている。朱貴は戴宗に荷物を探り、蔡京にあてた手紙を読んで宋江の危機を知ると、戴宗を解包して事情を聞いた。この後、戴宗は梁山泊に登って晁蓋らに状況を説明し、呉用が策を立てた。

「次日」、戴宗は呉用の策に従って蕭譲と金大堅を呼び出し、梁山泊に拉致した。「次日」、前日に連れ出された蕭譲と金大堅の家族が梁山泊に到着した。この日のうちに蕭譲と金大堅は蔡京の偽手紙を作り、それを携えた戴宗は江州に戻った。

これらも全て第39回内の出来事である。日数を合計すると、3日、1日、1日となり、およそ5日の出来事となる。6月上旬から5日経過したということであるため、およそ6月中旬の出来事であると考えられる。

以下は余談である。戴宗は江州から梁山泊まで3日で到着したことになる。そのうえで蔡京の偽手紙を作るまでに2日を要しているため、再び3日で江州に戻ったとすると8日かかったことになる。これは黄文炳の見立ての10日よりも少し早いが、想定内である。

これに基づけば、戴宗は6月中旬から8日かけ、6月下旬には江州に戻ったことになる。しかし、実際に戴宗が江州に戻ったのは7月11日である。6月中旬から1ヶ月ほどかかっている計算になるが、この遅れについて本文では特に何も語っていない。
 
 
 7月11日 戴宗、江州に戻り偽手紙を提出する

梁山泊製の偽手紙を持ち帰った戴宗は、まず宋江に会って事情を説明した後、蔡得章に偽手紙を提出した。しかし、呉用の不安通り黄文炳が手紙の不備を見破ったため、翌日に問いただすことにした。これらは第40回内の出来事である。

7月15日を基準とすると、この日の「次日」が7月12日となるため、この日は7月11日ということになる。ただし、前述のように、行きの時間に対して帰りの時間が不自然に長すぎるという問題がある。
 
 
 7月12日 蔡得章、戴宗を捕らえる

先日に黄文炳が梁山泊製の偽手紙を見破ったことにより、蔡得章は酒場で飲んでいた戴宗を連行して詰問した。ここでボロが出たため、拷問にかけたところ、戴宗は梁山泊に偽手紙を押しつけられたと嘘をついたが、蔡得章らは彼が梁山泊と通じていると見抜き、宋江ともども処刑することに決めた。第40回に描写がある。この日の「次日」が7月13日であるため、この日は7月12日ということになる。

ちなみに、蔡得章が戴宗を詰問する場面で張幹辦の名が出ていることに注目したい。彼は第74回で実際に登場し、梁山泊に対する招安の使者の1人となるが、強硬な態度が裏目に出て任務に失敗している。
 
 
 7月13日 蔡得章、宋江と戴宗の処刑の日程を決める

蔡得章は宋江と戴宗を翌日に処刑するつもりであったが、翌日は国家の忌日、その翌日の7月15日は中元節、さらに翌日は国家の景命に当たることから処刑ができず、処刑は4日後(原文では当日を1日目として5日後)に引き伸ばされることになった。

第40回の地の文に「後日又是七月十五日中元之節」とある。「後日」は明後日であることから、7月15日の一昨日ということになり、7月13日の出来事であることが分かる。
 
 
 7月18日 梁山泊軍、江州を襲撃し、宋江らを救出する

宋江と戴宗が処刑される当日、「午時三刻(14時ごろ)」に処刑が執行される寸前、見物客に扮した梁山泊軍が処刑場を襲撃した。さらに、それとは別に李逵が官民を問わない虐殺を行い、一帯が大混乱に陥ったのに乗じて梁山泊軍は宋江らを救出、同じく救出に向かっていた李俊らとも合流した。

梁山泊軍約90人と李俊ら約40人を合わせた一団は、追撃に向かった江州の兵約6千人を撃退した。後に侯健の語るところによると、この一連の騒動で民間人を含む約5百人の死者が出たという。

その後、一同は船で掲陽鎮に移り、穆大公の家で休養を取った。この時、宋江が黄文炳への恨みを露わにしたため、一同は彼の住む無為軍への襲撃を画策、薛永は案内役を探すために旅立った。第40回の地の文に「直至五日後」とある。前述の7月13日からの「五日後」であるため、7月18日ということになる。
 
 
 7月19日 黄文炳、江州で蔡得章と今後の対策を協議する 

7月18日に梁山泊軍が江州を襲撃した際、黄文炳は自宅の無為軍にいたようである。そのため、知らせを受けると江州に出向き、蔡得章と今後のことを協議した。第41回の地の文に「昨夜」とある。7月20日の「昨夜」であるため、7月19日の出来事ということになる。
 
 7月20日 宋江、無為軍襲撃の手筈を整える 

襲撃準備中の宋江のところに薛永が戻り、黄文炳の下で働いている侯健を引き合わせた。侯健が無為軍の地勢を説明すると、宋江は各員に指示を出し、その日の初更(20時)に無為軍の沿岸に到着、二更(22時)には城壁を乗り越えるための準備を終えた。第41回の地の文に「了兩日」とある。7月18日の2日後ということであるため、7月20日の事件ということになる。

なお、第41回の地の文に基づくと、この日は「七月盡」、つまり7月30日である。しかし、それだと時系列がおかしくなるため、ここでは計算上の時系列を採用した。
 
 
 7月21日 宋江、無為軍を襲撃し、黄文炳を捕らえて食す

三更二點(0時半)、宋江は合図を出して無為軍を襲撃させた。梁山泊軍は黄文炳の邸宅を襲撃、別居していた兄の黄文燁を除く一族50人弱を惨殺し、財貨を略奪した。

この時、黄文炳自身は江州におり、自宅が燃えているのを知らされると帰宅しようとしたが、その途中で李俊と張順らに捕らえられ、穆大公の家にいた宋江の元に引き出された。黄文炳は李逵によって惨殺され、その遺体は無為軍を襲撃した梁山泊軍の食糧とされた。

第41回で宋江が無為軍襲撃の作戦を説明した際、「來日三更二點為期、且聽門外放起帶鈴鵓鴿」と言っている。これは7月20日の出来事であり、0時半である三更二點であれば既に翌日になっているため、7月21日の出来事であるということになる。

なお、この時に黄文炳の肉を食した人物は30人におよぶ。第41回の冒頭で紹介された宋江と戴宗、梁山泊から応援に駆け付けた17人と李俊ら9人に李逵と侯健を合わせた30人である。この中には李逵や人肉酒場を開いていた李立、宋江を食べようとした燕順、王英、鄭天寿らはともかく、花栄と黄信といった元軍人、宋江、戴宗ら胥吏、晁蓋、穆弘、穆春ら元富農も含まれている。この時に梁山泊の頭領で人肉を口にしなかったのは、梁山泊に残っていた呉用、公孫勝、林冲、秦明、金大堅、蕭譲ら6人である。
 
 
 7月24日 黄門山の山賊団、梁山泊軍を出迎える

梁山泊へ帰還する途中の晁蓋らが黄門山を通りかかると、黄門山の山賊である欧鵬らが出迎え、一行を歓待した。第41回の地の文に「在路行了三日」とある。7月21日から3日目ということであるため、7月24日の出来事とということになる。
 
 
 7月25日 黄門山の山賊団、梁山泊に合流する

黄門山の山賊たちは、宋江の勧めで梁山泊に合流することとなり、黄門山の拠点を捨てて宋江らに従った。第41回の地の文に「次日」とある。7月24日の「次日」であるため、7月25日の出来事ということになる。
 
 
 9月下旬 王押司の二周忌を営む

潘巧雲の前夫である王押司の二周忌が来た。石秀は二周忌の準備を手伝ったが、法要に来た裴如海と潘巧雲の親しげな様子を見て察するところがあった。第44回の地の文に「秋殘冬到」とある。太陰暦では9月までが秋で10月から冬になるため、9月下旬であるということになる。

なお、「秋殘冬到」の前の箇所に「過了兩個月有餘」とある。つまり、2ヶ月が過ぎて9月下旬になったということである。7月25日のから2ヶ月が過ぎて9月下旬になったとすれば、時系列は一致しているように見える。

しかし、ここで問題となるのが、第42回で公孫勝が里帰りした後、第44回で100日経っても帰ってこないため、戴宗が様子を探りに旅立っていることである。言うまでもなく、100日経てば3か月以上が経過していることになり、時系列は破綻してしまう。公孫勝の話がなければ時系列は問題ないため、作者は後から公孫勝の話を挿入したが、時系列の整理を忘れていたものと思われる。
 
 
 9月 李逵の母が虎に食われる

李逵は故郷の母を梁山泊に連れて行こうとしたが、その道中で虎に食い殺された。第43回の詩に「九月」とある。
 
 
 10月下旬 石秀、胡頭陀の行動に疑念を抱く
 
裴如海は胡頭陀に楊雄の出入りを見張らせ、楊雄が不在の時に潘巧雲と密通を重ねた。石秀は潘巧雲らの関係が怪しいとは思っていたものの決定的な証拠を見いだせずにいたが、胡頭陀の動きがおかしいことに気付き、彼を探ることにした。第45回の地の文に「將近一月有餘」とある。9月下旬から1ヶ月ということであるため、10月下旬の出来事であるということになる。
 
 
 11月中旬 石秀、潘巧雲の浮気を突き止め、楊雄に報告する
 
石秀は楊雄が留守の間に間男が家から出るのを見届けた。証拠をつかんだ石秀は楊雄に一件を話し、2人で翌日に現場を取り押さえる計画を立てた。しかし、酒に酔った楊雄が口を滑らせたことで計画は露見した。第45回の地の文に「十一月中旬之日」とある。
 
 
 年内 田虎、仇申を殺す

田虎は威勝軍沁源県の猟師であるが、政治の乱れに乗じて盗賊となった。ある時、田虎の一団は義父の葬儀に向かう途中であった仇申を襲撃して殺し、妻の宋氏を拉致した。仇申の主管の葉清は、生き残った莊客から仇申の死を知らされると、仇申の遺体を探して埋葬し、被害届を提出するとともに、両親を失った瓊瑛を養育した。

120回本の第98回によると、この時の瓊瑛は「年至十歲時」、つまり数え年で10歳、満年齢で9歳である。そして、宣和5(1123)年当時の瓊瑛は「一十六歲」、数え年で16歳、満年齢だと15歳である。よって宣和5(1123)年の6年前ということになり、政和7(1117)年の出来事であることが分かる。なお、仇申を殺したのが田虎であると判明するのは少し後の描写である。この時点では、単に「強人(強盗)」としか記されていない。