政和4(1114)年は魯智深と林冲の活動が中心となる。
 
 
 時系列  干支  西暦  回数  出来事
 2月      4  魯智深、再び五台山で暴れ、追放される
 2月下旬      5  魯智深、桃花村にて周通を退治する
 3月28日  癸卯  5月4日  7  魯智深は林冲と出会い、高衙内は張氏を襲う
 4月1日  丙午  5月7日  7  富安、高衙内に入れ知恵をする
 4月2日  丁未  5月8日  7  高衙内、陸謙を味方に引き入れる
 4月6日  庚辰  6月10日  7  林冲、魯智深と再会する
 4月下旬      7  高俅、林冲の排除を容認する
 6月      8  林冲、滄州に流刑となる
 冬      10  陸謙、管営と差撥に林冲の殺害を依頼する
 年内      31  孫二娘、行者を殺す
 年内      35  石勇、柴進の庇護を受ける
 年内      61  盧俊義、賈氏を娶る
 
 
 2月 魯智深、再び五台山で暴れ、追放される

魯智深は以前の事件以来おとなしくしていたが、再び酒を飲んで暴れ出したため、五台山から東京開封府の大相国寺に追放された。第4回の地の文に「二月間」とある。また、前回の事件が10月に起きているため、年が明けていることも確実である。

さらに、これより少し前に以前の事件から「一連三四個月」が経過していると記されている。10月から3、4ヶ月たって2月になったということであるため、時間の経過としては合致している。
 
 
 2月下旬 魯智深、桃花村にて周通を退治する

魯智深は、大相国寺に向かう旅の途中で桃花村の劉大公の邸宅に立ち寄った。劉大公は、娘を貰い受けようとする山賊に悩まされていたため、魯智深は出向いた山賊の周通を撃退、報復に駆けつけた周通の兄貴分の李忠とは知り合いであったため、うまく話をまとめることができた。

第5回の地の文に「行了半月之上」とある。上述の通り、魯智深が2月に五台山を出てから半月以上たったということである。漠然と2月としか記されていないが、2月上旬であれば2月下旬、中旬ならば3月上旬、下旬ならば3月中旬となる。ここでは仮に2月下旬としておく。
 
 
 3月28日 魯智深は林冲と出会い、高衙内は張氏を襲う

大相国寺の菜園の番人となった魯智深は林冲と出会い、意気投合した。林冲は女中の錦児より妻の張氏が襲われたと知らされ、魯智深と別れて暴漢を撃退するが、その暴漢は高俅の養子の高衙内であった。

第7回の地の文に「三月盡」とあることから、まず3月の末の事件であることが分かる。さらに、その後の高衙内が高俅に助けを求めるシーンでは、「前月二十八日」と語っているため、これらを合わせると3月28日ということになる。
 
 
 4月1日 富安、高衙内に入れ知恵をする

以前の事件以来張氏に執着する高衙内に対し、取り巻きの富安は林冲の友人である陸謙を味方に引き込むように提案した。第7回の地の文に「過了三兩日」とある。上記より事の発端となる事件が3月28日に起きていることから、その3日後の4月1日の出来事ということになる。
 
 
 4月2日 高衙内、陸謙を味方に引き入れる

前述の密議により、高衙内は林冲の友人である陸謙を味方に引き入れた。その日の昼ごろ、陸謙は林冲を酒場に誘い出し、そのすきに高衙内が林冲の邸宅に押し入ったものの、林冲は再び錦児より知らせを受け、高衙内を退けた。

第7回の地の文に高衙内と富安が語らった日の「次日」とある。上記の通り、その日を4月1日とすれば、その次の日は4月2日となる。
 
 
 4月6日 林冲、魯智深と再会する

ここ数日間の出来事で気が立っていた林冲であるが、彼を心配して来訪した魯智深を快く迎え入れ、再び2人で飲み歩くようになった。第7回の地の文に「第四日」とある。高衙内が再度張氏を襲ってから4日目ということになる。上記の通り、この事件は4月2日に起きているため、その4日後ということは4月6日となる。
 
 4月下旬 高俅、林冲の排除を容認する

高俅は高衙内が病床に伏したことを心配していた。富安と陸謙から、病の原因が張氏に対する情欲であることを知らされると、彼らが提案した林冲の排除を容認した。

第7回の高俅に状況を説明する都管の言葉に「便是前月二十八日在嶽廟裏見來、今經一月有餘」とある。上記の高衙内が張氏を襲った3月28日の事件から、およそ1ヶ月後ということになるため、4月末から5月上旬ということになる。ここでは4月下旬としておく。
 
 
 6月 林冲、滄州に流刑となる

林冲は高俅の仕掛けた罠にはまり、高俅暗殺の容疑をかけられる。彼を殺したい高俅たちと法に基づいた処置を下したい官吏たちとの駆け引きの結果、林冲は滄州に送られ、雑役に服することとなった。第8回の流刑の道中を描写した地の文に「六月」とある。
 
 冬 陸謙、管営と差撥に林冲の殺害を依頼する

滄州に到着した林冲は、道中で知り合った柴進の助力もあり、それなりに快適な生活を送っていた。しかし、高俅たちは陸謙を管営と差撥のもとに遣わし、林冲の合法的な抹殺を依頼した。

第10回の地の文に「迅速光陰、卻早冬來」とある。ちなみに、管営と差撥は人名ではなく役職名である。ちくま文庫の翻訳では、「管営」が「典獄」、「差撥」が「番卒頭」と意訳されている。
 
 
 年内 孫二娘、行者を殺す

張青と孫二娘の夫婦が経営する酒屋は、客を毒薬で麻痺させ、殺して饅頭の材料にしていた。張青は、出家、妓女、護送中の流刑囚らの殺害を孫二娘に禁じていたが、孫二娘は巨漢の頭陀を殺害し、その荷物を奪ってしまう。

第31回、張青夫妻は鴛鴦楼で殺人を犯した武松を匿い、上記の頭陀の装束を借りて行者に化けるように提案した。この時、孫二娘が「二年前」に頭陀を殺害したと語っている。鴛鴦楼の事件は政和6年に起きているため、その2年前であれば政和4年ということになる。
 
 
 年内 石勇、柴進の庇護を受ける

宋江は、仲間を引き連れて梁山泊に向かう途中で酒屋に立ち寄り、石勇と席の取り合いで対立する。その際、石勇は自分が頭を下げる人物は宋江と柴進だけであると宣言するが、相手が宋江であることを知ると謝罪し、宋清から託された手紙を渡した。

第35回の地の文に「三年前在柴大官人莊上住了四個月有餘」とあり、石勇は3年前に4ヶ月ほど柴進の邸宅にいたことが分かる。上述の事件は政和7年2月11日に起こったと導き出せるため、その3年前は政和4年ということになる。なお、政和4年には、林冲も柴進の庇護を受けており、武松も滞在していた可能性が高い。彼らの間にも面識があったのかもしれない。
 
 
 年内 盧俊義、賈氏を娶る

盧俊義が呉用に騙されて長旅に出ようとした際、結婚5年目の妻の賈氏は、燕青や李固とともに彼を諌めたが、盧俊義は聞き入れず、梁山泊を通りかかった際に拉致された。

第61回の地の文に「纔方五載」とある。上記の出来事は宣和元年5月ごろに起こっているため、その5年前であれば政和4年ということになる。ちなみに、政和4年当時、盧俊義は26歳、賈氏は19歳(いずれも満年齢換算)であった。