政和5(1115)年は楊志、晁蓋、宋江、武松と主役が目まぐるしく交代する。『宋史』の23巻(本紀23)によると、史実では本年度の2月5日(乙巳)に徽宗が欽宗を皇太子に指名して天下に恩赦を出しているが、『水滸伝』では2年後の政和5(1117)年の出来事であるため、月日を合わせたうえでそちらにまわした。 
 
 
 時系列  干支  西暦  回数  出来事
 2月9日  己酉  3月6日  12  楊志、罪人として北京大名府に到着する
 2月中旬      12  梁世傑、武芸の調練を実施する
 5月5日   甲戌  5月30日  13  梁世傑、蔡夫人と生辰網の相談をする
 5月上旬      15  呉用、阮氏三兄弟と接触するため、東渓村を出る
 5月中旬      16  楊志、生辰綱の輸送任務に就く
 6月3日  辛丑  6月26日  18  晁蓋一行、安楽村に宿泊する
 6月4日   壬寅  6月27日  16  晁蓋ら、楊志の一行から生辰綱を強奪する
 6月5日  癸卯  6月28日  17  楊志、魯智深と出会う
 6月6日  甲辰  6月29日  17  魯智深と楊志、二竜山を占拠する
 6月中旬      17  生辰綱の輸送隊、大名府に帰還する
 8月中旬      20  宋江、閻婆惜を殺す
 9月末    10月下旬  22  宋江と宋清、滄州に逃れる
 10月      23  武松、景陽岡の虎を退治する
 11月      24  藩金漣、武松を誘惑するが拒絶される
 12月8日  癸卯  12月25日  32  劉高夫人の母死去
 
 
 2月9日 楊志、罪人として北京大名府に到着する

楊志は東京開封府で殺人を犯したが、相手が悪党であったこともあり、減刑されて北京大名府で雑役に服することになった。しかし、大名府の留守司である梁世傑は楊志の才能を高く評価し、自分の部下に取り立てた。第12回の地の文に「二月初九日」とある。
 
 
 2月中旬 梁世傑、武芸の調練を実施する

梁世傑は楊志を重く用いようとしたが、部下たちの反発を懸念していた。そのため、楊志を武芸の調練に参加させ、その実力を示させることで、彼らを納得させようとした。その結果、楊志は正牌軍の索超と引き分け、索超とともに管軍提轄使に取り立てられた。第12回の地の文に「二月中旬」とある。
 
 
 5月5日 梁世傑、蔡夫人と生辰網の相談をする

梁世傑は、舅の蔡京の誕生日祝いとして、10万貫相当の生辰綱を準備していた。しかし、前年は生辰綱を盗賊に奪われていたため、妻の蔡夫人と警備の人選について話し合った。第13回の地の文に「時逢端午」とある。「端午」は「端午の節句」のことで5月5日にあたる。
 
 
 5月上旬 呉用、阮氏三兄弟と接触するため、東渓村を出る

晁蓋、呉用、劉唐らは、梁世傑の生辰綱の強奪を計画した。呉用は同志の候補として、阮小二、阮小五、阮小七の三兄弟を挙げ、彼らに探りを入れるべく、石碣村へと旅立った。第15回の呉用の発言に「五月初頭」とある。
 
 
 5月中旬 楊志、生辰綱の輸送任務に就く

梁世傑は生辰綱を蔡京に送り届けるため、楊志を輸送隊長に任命した。楊志は盗賊の裏をかくため、行商人を装い、あえて少人数で行動することを提案、それが採用されると、十数人を率いて大名府から開封府へと向かった。第16回の地の文に「五月半」とある。
 
 
 6月3日 晁蓋一行、安楽村に宿泊する

晁蓋一行は黄泥岡で生辰綱の輸送隊を待ち受けるため、近所の安楽村に宿を取った。この時、宿帳を担当していた何清は晁蓋の顔を見知っていたが、彼が偽名を使ったことから不信感を抱いた。その翌日に生辰綱の強奪事件が起こったため、何清は晁蓋が犯人であると確信した。第18回で何清が兄の何濤に状況を説明した際、「六月初三日」と語っている。
 
 
 6月4日 晁蓋ら、楊志の一行から生辰綱を強奪する

晁蓋一行は行商人役と酒屋役の2グループに分かれ、黄泥岡で休憩中の楊志の一団と接触した。行商人グループが酒屋グループの酒を飲んで楊志らの警戒心を解き、彼らが酒を求めたところで酒に毒薬を混ぜ、麻痺した一行から生辰綱を強奪した。

楊志は毒薬入りの酒を少ししか飲まなかったため、同行者たちよりも早く痺れから回復したが、任務の失敗を悟って逃走した。一方、取り残された生辰綱の輸送隊の面々は、逃亡した楊志に責任を押し付けることとし、この事件のあらましを所轄の済州に報告することに決めた。第16回の地の文に「六月初四日」とある。
 
 
 6月5日 楊志、魯智深と出会う

逃亡中の楊志は、立ち寄った曹正の酒屋で無銭飲食を試みた。曹正が咎めると、楊志は武勇のほどを見せつけることで曹正を感服させた。その後、楊志は曹正の勧めで二竜山の山賊の一員に加わろうとした。

しかし、その途上で魯智深と遭遇、彼の起こした騒動で二竜山が守りを固めたことを知る。2人は曹正の酒屋に戻り、二竜山乗っ取りの計画を練った。一方、生辰綱の輸送隊の面々は、この日のうちに事件について済州に報告すると、梁世傑のもとに戻っていった。

第17回の地の文に「漸漸天色明亮」とある。これは、「夜が明けてきた」ということである。つまりは、生辰綱が強奪された6月4日から時間が経過し、夜が明けたということであるため、6月5日の出来事ということになる。
 
 
 6月6日 魯智深と楊志、二竜山を占拠する

魯智深、楊志、曹正らは二竜山を占拠するために一計を案じた。それは、二竜山の山賊団と諍いを起こした魯智深を縛り上げ、首領の鄧竜に献上するという名目で二竜山に入り込むというものであった。この策略は図に当たり、魯智深らは油断した鄧竜を殺すと、そのまま二竜山を掌握した。魯智深が新たな首領となったが、曹正は山賊となることを好まず、酒屋に戻っていった。

第17回の地の文に「次日」とある。時系列が確定している6月4日の出来事から計算していくと、前述の通り、6月5日の出来事があり、その「次日」となるため、6月6日の出来事であることが分かる。
 
 
 6月中旬 生辰綱の輸送隊、大名府に帰還する

生辰綱の輸送隊は大名府に帰還すると、任務の失敗を梁世傑に報告した。その際、かねてからの打ち合わせ通り、1人で逃走した楊志に責任を負わせている。梁世傑は激怒し、蔡京に状況を報告、蔡京は即座に賊を捕らえるよう、管轄の済州に布告を出した。

第17回で生辰綱の輸送隊が梁世傑に状況を説明した際、出立より「五七日後」に生辰綱を奪われたと言っている。ただし、第16回では「十四五日」とあり、描写は矛盾している。いずれにしても、上述の通り、生辰綱の強奪事件は6月4日に起きているため、6月中旬の出来事であることは間違いない。
 
 
 8月中旬 宋江、閻婆惜を殺す

宋江は、生辰綱の一件で晁蓋を助けたことがあった。後に晁蓋が梁山泊の首領になると、その時の謝礼と感謝状を贈られたが、宋江は感謝状だけを受け取り、謝礼は断った。しかし、その感謝状を内縁の妻の閻婆惜に見られてしまい、謝礼を差し出すように脅迫されたことから、閻婆惜を殺してしまう。第20回の地の文に「八月半」とある。
 
 
 9月末 宋江と宋清、滄州に逃れる

宋江は閻婆惜殺しの罰から逃れるため、弟の宋清を連れて滄州の柴進の庇護を受けることにした。第22回の地の分に「秋末」とある。
 
 
 10月 武松、景陽岡の虎を退治する

武松は故郷に帰る途中、景陽岡で虎に襲われたが、返り討ちにした。第23回の地の文に「十月」とある。
 
 
 11月 藩金漣、武松を誘惑するが拒絶される

潘金蓮は夫の武大の不在中、その弟の武松を誘惑するが、拒絶された。第24回の地の文に「十一月」とある。
 
 
 12月8日 劉高夫人の母死去

この日に劉高夫人の母親が死去した。翌年の同日、劉高夫人は一周忌の墓参りに出かけたが、清風山の山賊団に拉致された。第32回、宋江が劉高夫人に素性をたずねる場面で、劉高夫人は「今得小祥」と言っている。「小祥」は「小祥忌」、つまりは一周忌のことであり、政和6年12月8日にあたるため、その前年であれば政和5年12月8日ということになる。