本編の年表 嘉祐3(1058)年 政和2(1112)年 政和3(1113)年 政和4(1114)年 政和5(1115)年 政和6(1116)年 政和7(1117)年 重和元(1118)年 宣和元(1119)年 宣和2(1120)年 宣和3(1121)年 宣和4(1122)年 宣和5(1123)年(120回) 宣和5(1123)年 宣和6(1124)年
水滸伝 トップページ 参考文献 メール
政和6(1116)年は武松と宋江、そして120回本の王慶の活動が中心となる。王慶編は武松編の焼き直しという印象を受けるが、計算の結果、ほぼ同時期の事件であるということになった。武松編の年代は『水滸伝』では提示されず、計算によって求めるしかないため、もしかしたら、120回本の作者は計算ずくで武松編の時系列を導き出した後に王慶編を重ねたのかもしれない。
なお、『金瓶梅』では第10回の武松に対する判決文から政和6(1116)年3月9日に該当する時期が政和3(1113)年8月であることが分かる。少なくとも120回本の作者は、『金瓶梅』を参考にしていないか、それ以前に120回本を書き上げたと考えられる。
また、本年度は1月に閏月がある。しかし、これを考慮すると時系列が合わなくなってしまうため、『水滸伝』の描写を優先して採用していない。このことは、『水滸伝』の作者が武松編の時系列を細かく考えていないことを意味していると思われる。
時系列 干支 西暦 回数 出来事 1月 26 武松、任務を終え、開封府を出立する 1月13日 戊寅 1月29日 26 鄆哥、王婆に叩きのめされる 1月14日 己卯 1月30日 25 武大、藩金蓮の浮気現場に踏み込む 1月15日 庚辰 1月31日 25 西門慶、潘金蓮との密通を続ける 1月20日 乙酉 2月5日 25 西門慶ら、武大の殺害を決意する 1月21日 丙戌 2月26日 26 潘金蓮、武大を毒殺する 1月22日 丁亥 2月27日 26 何九叔、武大の遺体を検分する 2月 36 閻婆死去 2月 (101) 王慶、童貫の養女嬌秀と密通する 3月7日 辛丑 4月21日 26 武松、陽穀県に帰還、武大の死を知る 3月8日 壬寅 4月22日 26 武松、証拠を揃えて西門慶を告発する 3月9日 癸卯 4月23日 26 武松、藩金蓮と西門慶を殺す 3月 (103) 范全が公用のため東京に来訪、王慶の家に泊まる 3月 32 宋江、孔太公の屋敷に移る 5月 (101) 王慶と嬌秀の密事が露見する 5月28日 辛酉 7月10日 (102) 王慶、陝州の牢城への流刑に処される 6月上旬 27 武松、孟州に護送される 6月上旬 (102) 王慶、療養を終え、陝州の牢城に出立する 6月下旬 27 武松、十字坡の酒場で孫二娘を打ち倒す 6月下旬 28 武松、孟州でのもてなしに疑問を抱く 6月下旬 (102) 王慶、龔家村で龐元を叩きのめす 7月上旬 (103) 王慶、龔家村を出立する 7月 28 武松、蒋忠を打ち倒し、施恩のもてなしに報いる 8月15日 丙子 9月23日 30 武松、鴛鴦楼で張蒙方に捕らえられる 8月16日 丁丑 9月24日 30 武松、罪を着せられ、投獄される 8月17日 戊寅 9月25日 30 施恩、武松と再会し、状況を説明する 8月19日 庚辰 9月27日 30 施恩、武松と二度目の対面に成功する 8月下旬 9月下旬 30 施恩、武松と三度目の対面に成功する 9月上旬 (103) 王慶、張世開から角弓の購入を命じられる 9月中旬 (103) 王慶、張世開に立替金を踏み倒される 10月1日 辛酉 11月7日 30 施恩、蒋忠に打ち負かされる 10月16日 丙子 11月22日 31 鴛鴦楼の虐殺事件 10月17日 丁丑 11月23日 31 武松、張青らと再会する 10月中旬 (103) 王慶、張世開と龐元の関係を知る 10月21日 辛巳 11月27日 31 武松、行者の装束をまとう 10月下旬 (103) 王慶、張世開らを殺害する 11月上旬 32 武松、孔明らと対立する 11月下旬 32 宋江と武松、瑞竜鎮で別れる 12月2日 辛酉 1月6日 32 宋江、燕順らに捕らえられる 12月8日 丁卯 1月12日 32 王英、劉高夫人を捕らえる 12月14日 癸酉 1月18日 32 宋江、清風山を下り、花栄と再会する 年内 44 飲馬川の山賊団結成
1月 武松、任務を終え、開封府を出立する
武松は虎退治の功績によって陽穀県の都頭に取り立てられていたが、陽穀県の知県の命により、開封府にいる知県の親戚に知県が貯め込んだ財貨を送り届けることとなった。任務を果たした武松は、再び陽穀県に向かって旅立った。第26回の地の文に「新春」とある。「新春」とは1月のことである。
1月13日 鄆哥、王婆に叩きのめされる
鄆哥は西門慶と潘金蓮の密通の現場に立ち入ろうとしたが、王婆に叩きのめされた。これを恨んだ鄆哥は、この一件を潘金蓮の夫の武大に教えた。第26回で鄆哥が武松に状況を聞かれた際、「正月十三日」と答えている。
1月14日 武大、藩金蓮の浮気現場に踏み込む
1月13日に鄆哥から西門慶と潘金蓮の密通を知らされた武大は、その翌日に現場を抑えるが、西門慶に蹴り倒され、瀕死の重傷を負った。
第25回の地の文に「次日」とあるが、この段階では、いつの「次日」かは分からない。しかし、第26回で「正月十三日」の「次日」ということが判明するため、1月14日の出来事であることが分かる。
1月15日 西門慶、潘金蓮との密通を続ける
西門慶は武大が一命をとりとめたとは言え、寝たきりになったと知ると、その翌日から潘金蓮との情事を再開した。ちなみに、西門慶らは隣家の王婆の家で関係を持ち、武大は自宅に寝かされている。第25回の地の文に「次日」とある。1月14日の「次日」であるため、1月15日の出来事ということになる。
1月20日 西門慶ら、武大の殺害を決意する
武大は重体のまま放置されたことに怒り、県庁の任務で不在中の武松が帰ってきてからのことを持ち出す。武松による報復を恐れた西門慶、潘金蓮、王婆らは武大を殺して口を封じる決意をした。
第25回の地の文に「武大一病五日」とある。1月15日に武大が西門慶に蹴り倒されてから5日後ということであるため、1月20日の出来事であるということになる。また、第25回中の西門慶の発言に「明日五更來討回報(明日は5更に首尾を聞きにくるから)」とある。そして、実際に西門慶が潘金蓮らのもとを訪れたのが、武大の死亡した日であるため、この出来事は武大の死亡した日の前日であることになる。
武大の遺体の検分が行われたのが1月22日であり、その前日の1月21日に武大が死亡している。その前日ということであれば、1月20日の出来事ということになり、時系列は一致している。
1月21日 潘金蓮、武大を毒殺する
西門慶は薬屋を営んでおり、劇薬である砒素を取り扱っている。王婆は彼からもらった砒素と潘金蓮に買わせた薬から毒薬を調合し、潘金蓮は、それを武大に飲ませて殺害した。
この事件自体は第25回で起きている。しかし、この時点では、潘金蓮と何九叔の会話から、何九叔が武大の遺体を検分した日の前日に武大が死亡したということしか分からない。しかし、第26回で武松と何九叔が話し合った際、何九叔は1月22日に武大の遺体を検分したと語っているため、前述の事情と合わせて、1月21日に武大が殺されたことになる。
1月22日 何九叔、武大の遺体を検分する
王婆らは地方上團頭の何九叔に武大の検死を依頼した。さらに、西門慶は彼に賄賂を渡し、事を荒立てないようにようにほのめかした。しかし、何九叔は武大の遺体を見てただ事ではない事態が起こったことを悟り、密かに遺骨の一部を持ち帰って証拠の品とした。
これまでも何度か触れているが、この事件は第25回で起きているものの、実際に時系列が確定するのは、第26回で武松が何九叔から話を聞き出した際の何九叔の証言である。
2月 閻婆死去
宋江に娘の閻婆惜を殺された閻婆は、宋江の逮捕をしきりに訴えていたが、それを見ることなく死去した。第36回に「那時閻婆已自身故了半年」とある。閻婆惜は政和5年8月に殺され、それより半年して閻婆も死去したということになるため、政和6年2月ころの出来事となる。
2月 王慶、童貫の養女嬌秀と密通する
王慶は、嬌秀を見初めて嶽廟まで後をつけた。しかし、彼女に従っていた董虞侯にばれて殴られたために逃走した。一方、嬌秀は童貫の養女で蔡京の孫に嫁ぐ予定であったが、政略結婚に嫌気がさしていたため、王慶を探し出して密通した。120回本の第101回に「政和六年仲春」とある。「仲春」は2月のことであるため、政和6年2月の出来事ということになる。
なお、上述の蔡京の孫、原文では「蔡攸之子」であるが、『宋史』の472巻(列伝231)によると、蔡攸の息子として蔡行の名を確認することができる。『水滸伝』では「生來是憨獃的(生来の愚物)」などと書かれてしまっているが、『宋會要輯稿』の選挙9によると、宣和6年5月20日に科挙の優遇措置として「特賜進士出身」の資格を得ている。
要は下駄をはかせてもらえないと科挙に合格できなかったということである。同書の職官69、黜降官6によると、靖康元(1126)年に蔡京らの処罰に連座して流刑に処されている。嬌秀の実父である童貰の名は史書には見られない。
3月7日 武松、陽穀県に帰還、武大の死を知る
武松は公務を終えて開封府から陽穀県に戻ってきたが、潘金蓮から武大が死亡したことを知らされた。武松が武大を弔うと、武大が化けて出て無念を訴えたため、武松は兄の死に不信を抱き、独自に調査する決意を固めた。
まず、第26回の地の文に「三月初頭」とある。さらに、その後の武松と潘金蓮のやり取りの中で、潘金蓮は武大の死から「再兩日、便是斷七(あと3日で、49日ですわ)」と言っている。つまり、この出来事は1月21日の46日後にあたるということである。
本来であれば、政和6年は本来の1月とは別に閏月の1月があるため、これに基づいて日数を算出すると2月8日となる。ただし、この場合は上述の「三月初頭」とは矛盾が生じる。一方、閏月を考慮に入れないと3月7日となり、こちらは「三月初頭」と合致するため、『水滸伝』の作品内世界的には政和6年閏月1月が無かったものと見なし、こちらを採用する。
3月8日 武松、証拠を揃えて西門慶を告発する
武松は、何九叔から武大の遺骨と西門慶からもらった賄賂を武大殺害の証拠として受け取った。さらに鄆哥から西門慶と潘金蓮の密通の証言を得ると知県のもとに出向き、彼らを証人として西門慶を告発した。しかし、西門慶も賄賂をばらまき、罪を逃れようとする。
第26回の地の文に「次日」とある。3月7日の「次日」であるため、この日は3月8日となる。
3月9日 武松、藩金蓮と西門慶を殺す
西門慶から賄賂を受け取った知県は、武松の訴えを退けた。そのため、武松は近所の人たちをもてなすという名目で潘金蓮と王婆を拘束すると、潘金蓮を脅迫し、事件の全貌を聞き出したうえで殺害した。さらに、その日のうちに西門慶を探し出すと、乱闘の末に殺して武大の仇を討ち、近所の人たちを証人として、役所に出頭した。
第26回の地の文に「次日」とある。3月8日の「次日」にあたるため、3月9日の事件ということになる。なお、武松が近所の人たちを招こうとした際の発言の中に「明日是亡兄断七(明日は兄さんの四九日でしょう)」とあるように、この翌日が武大の四九日となる。
3月 宋江、孔太公の屋敷に移る
宋江は半年ほど柴進の邸宅に滞在していたが、青州の孔太公の招きを受けて彼の邸宅に移った。第32回で宋江が武松と再会した際に「我卻在那裏住得半年」と語っている。
3月 范全が公用のため東京に来訪、王慶の家に泊まる
房州の両院押牢節級の范全は、3月に公用で開封府に出向き、従弟の王慶の家に泊まった。120回本の第103回において、殺人を犯した王慶が逃走中に偶然范全と再会した際、王慶が心の中で「春三月中」の出来事であったと語っている。
5月 王慶と嬌秀の密事が露見する
王慶と嬌秀は密通を続けてきたが、泥酔した王慶が口を滑らせたことで明るみに出た。120回本の第101回の地の文に密通をはじめてから「過了三月」とある。2人の密通は2月からはじまっているため、その3か月後ということは、5月ころの事件ということになる。ただし、後述のように5月28日に王慶が処罰されているため、それ以前のことであることは間違いない。
5月28日 王慶、陝州の牢城への流刑に処される
王慶は嬌秀との密通によって蔡京や童貫らに睨まれ、20杖の杖刑に処された後、陜州に流されることになった。120回本の第102回に「辛酉日」とある。時系列的に、この事件は5月以降6月以内でなければならないが、その条件を満たす辛酉の日は5月28日となる。
6月上旬 武松、孟州に護送される
潘金蓮と西門慶を殺して自首した武松は、孟州の牢城で軍役に服することとなった。第27回の地の文に「六月前后」とある。「前后」は「前後」と同じ意味である。
6月上旬 王慶、療養を終え、陝州の牢城に出立する
5月28日に陜州への流刑が言い渡された王慶は、まだ杖刑の傷が癒えていないことを理由に療養を願い出た。彼から賄賂を受け取った護送役人は、人里離れた民家に王慶を10日程度留まらせ、傷が癒えたところで陜州へと出立した。
120回本の第102回に「調治十餘日」の後、「六月初旬」に出立したとある。5月28日から10日程度経過したとすれば、6月8日前後になっているため、「六月初旬」で計算は合う。
6月下旬 王慶、龔家村で龐元を叩きのめす
王慶と護送の役人たちは、通りかかった龔家村で武芸者の龐元による演武を目撃した。この時、王慶が龐元の手並みにケチをつけたことから2人は口論となるが、龔端と龔正の兄弟が現れ、賞金を出すことで2人を勝負させた。王慶が龐元を一蹴すると、龔兄弟は賞金を王慶に渡し、一行を家に招いてもてなした。
120回本の第102回に「三個人行了十五六日」とある。6月上旬に旅立ってから15日から16日程度経ったということになるため、6月下旬の出来事ということになる。
6月下旬 武松、十字坡の酒場で孫二娘を打ち倒す
武松と護送の役人たちは、道中で酒場に立ち寄った。女将の孫二娘は毒薬の入った酒を飲ませて武松らを殺害しようとしたが、魂胆を見抜いた武松は、飲んだふりをしてやり過ごし、逆に孫二娘を打ち倒すと、彼女の夫の張青から事情を聞き出し、和解した。
第27回の地の文に「约莫也行了二十余日」とある。武松たちが出立した6月上旬から20日以上経過したということであることから6月下旬の出来事となる。
6月下旬 武松、孟州でのもてなしに疑問を抱く
孟州にたどりついた武松は、労役の免除や食事面で予期せぬ厚遇を受けた。しかし、武松はかえって状況を怪しみ、理由をたずねる機会をうかがうことにした。
第28回の地の文に「五六月」とある。これまでの状況から、5月であることはあり得ないが、同時に、まだ7月になっていないことが分かる。
6月下旬 王慶、龔家村で龐元を叩きのめす
王慶と護送の役人たちは、通りかかった龔家村で武芸者の龐元による演武を目撃した。この時、王慶が龐元の手並みにケチをつけたことから2人は口論となるが、龔端と龔正の兄弟が現れ、賞金を出すことで2人を勝負させた。王慶が龐元を一蹴すると、龔兄弟は賞金を王慶に渡し、一行を家に招いてもてなした。
120回本の第102回に「三個人行了十五六日」とある。6月上旬に旅立ってから15日から16日程度経ったということになるため、6月下旬の出来事ということになる。
7月上旬 王慶、龔家村を出立する
龔兄弟は、対立する黄達と戦うため、王慶を師と仰いだ。王慶は、因縁をつけに来た黄達を叩きのめした後も、龔兄弟に武術の稽古をつけていたが、黄達が役所に訴え出たこともあり、龔家村を出て陜州に向かった。
120回本の第103回に「自此一連住了十餘日」とある。6月23日から10数日程度経過しているとすれば、7月上旬となる。
7月 武松、蒋忠を打ち倒し、施恩のもてなしに報いる
武松が厚遇されたのは、彼の力を借りようとする施恩の計らいによるものであった。施恩から事情を聴いた武松は、縄張り争いで施恩と対立する蒋忠を叩きのめし、施恩の縄張りに手出しをしないように誓わせた。第29回の地の文に「七月」とある。
8月15日 武松、鴛鴦楼で張蒙方に捕らえられる
蒋忠を倒した後、武松は兵馬都監の張蒙方に招かれ、厚遇されるようになった。中秋節の宴に出席した武松は、盗賊が現れたという騒ぎを聞きつけ、助力を申し出るが、暗闇の中で盗賊として捕らえられたうえ、盗品が彼の手荷物から発見されたということで逮捕されてしまう。
実は蒋忠は伝手を使って張蒙方を取り込み、武松を陥れるように依頼していたのである。さらに張蒙方は事態を有利に進めるため、その日のうちに役人に賄賂を送り、後日の裁判で武松を厳罰に処するように手配したした。
第30回の地の文に「八月中秋」とある。「中秋」自体には複数の意味があるが、特に8月の「中秋」と言った場合は、8月15日の「中秋節」、つまりは「中春の満月」を愛でる行事を意味する。
8月16日 武松、罪を着せられ、投獄される
武松が逮捕された翌日、早急に裁判が開かれたが、張蒙方の裏工作に取り込まれていた役人たちは、武松に拷問を加えて罪を認めさせた。
一方、施恩は恩人である武松の危機を知ると、友人の牢役人である康節級と接触して内情を知り、張蒙方と同様に役人たちに賄賂を贈った。さらに裁判担当の葉孔目を味方に取り込むことにより、武松の罪を軽くするように運動した。
第30回の地の文に「次日」とある。八月中秋の「次日」であるため、8月16日ということになる。
8月17日 施恩、武松と再会し、状況を説明する
施恩は賄賂によって役人たちを懐柔し、投獄されていた武松と再会した。施恩は康節級から聞いた事件の真相を話し、武松の減刑のために活動中であることを説明した。
第30回の地の文に「次日」とある。8月16日の「次日」であるため、8月17日ということになる。
8月19日 施恩、武松と二度目の対面に成功する
施恩は康節級の助力で再び武松と接触、差し入れの食事を提供するとともに、牢役人たちにも賄賂をばらまいて武松を厚遇するように頼んだ。第30回の地の文に「過了兩日」とある。8月17日から2日過ぎたということであるため、8月19日ということになる。
8月下旬 施恩、武松と三度目の対面に成功する
施恩は三度目の武松との接触に成功し、着替えと食事を運んだ。しかし、施恩の動きを察した張蒙方が取り締まりの強化を役所に依頼したため、これ以上の接触は不可能となった。
第30回の地の文に「過得數日」とある。8月19日から数日後というあいまいな表現ではあるが、19日の数日後であれば、8月20日以降ではあるが、9月に入らないことは確実であるため、8月下旬の出来事ということになる。
9上旬月 王慶、張世開から角弓の購入を命じられる
陜州に流された王慶は、先に恩を売った龔端らの助力もあって快適な生活を送っていた。ある時、王慶は管営の張世開から角弓の購入を命じられて役目を果たし、目をかけられるようになったが、次第に要求は理不尽なものとなり、罰を受けることが多くなっていった。
120回本における第103回の地の文に「過了兩個月」とある。王慶らは7月上旬に龔家村を出立して同時期に陜州に到着したため、それより2ヶ月後であれば、9月上旬ということになる。
9月中旬 王慶、張世開に立替金の支払いを求めるが踏み倒される
王慶は張世開から買い付けを命じられたが、代金は与えられなかったため、すべて自腹で賄うしかなかった。ある時、王慶は張世開に代金を請求したが拒絶され、やがて龔端らから受け取った賄賂用の資金も底を突きた。
120回本における第103回の地の文に「過了十日」とある。9月上旬から10日後ということであるため、9月中旬の出来事であると考えられる。
10月1日 施恩、蒋忠に打ち負かされる
武松が投獄されたことで怖いもののなくなった蒋忠は、武松との約束を破り、施恩を打ち負かして彼の縄張りを奪った。第30回、10月16日に施恩が護送される武松と再会した際、これが「半月之前」の出来事であったと語っている。15日前であるとすれば、10月1日の事件ということになる。
10月16日 鴛鴦楼の虐殺事件
武松に対する60日の拘留期間が過ぎた。役所では、張蒙方の陰謀が明らかとなり、施恩の運動もあったことから、武松を恩州への流刑に処した。武松は、蒋忠の報復で負傷した施恩から餞別を受け取った後、護送役人たちとともに出発した。しかし、役人たちは蒋忠と結託しており、途上で蒋忠の弟子と合流して武松を殺そうとした。
武松は彼らを返り討ちにすると、事件の全貌と張蒙方らの居場所を聞き出し、彼らがいるという鴛鴦楼へと向かった。ここで張蒙方、蒋忠を含む15人を殺害し、自らの名と行状を壁に書き記すと、そのまま逃走した。先に返り討ちにした役人2人と蒋忠の弟子2人も殺しているため、この1日で合計19人を殺した計算となる。
第31回の地の文に「捱到六十日限滿」とある。8月16日に武松は逮捕された後、60日が過ぎたということになる。当時の中国は太陰暦を使用し、政和6年8月は29日で終わるため、ここまでで14日、9月は30日まであるため、ここまでで44日となり、10月16日をもって60日となる。
10月17日 武松、張青らと再会する
鴛鴦楼から逃走した武松であったが、休憩中に張青の手下に捕らえられるというかたちで張青らと再会する。武松は張青らに事情を話し、彼らのもてなしを受けた。一方、孟州では鴛鴦楼の虐殺に対する調査が行われ、武松には3千貫の賞金がかけられた。
第31回の地の文に「走了一五更、天色朦朦朧朧、尚未明亮」とある。要は10月16日の翌日になったということであるため、10月17日の出来事ということになる。
10月中旬 王慶、張世開と龐元の関係を知る
王慶は張世開から杖刑を受け続けて体中が腫れ上がったため、張醫士の治療を受けた。その際、張醫士は、王慶が龔家村で叩きのめした龐元の治療も手掛けたことを語った。さらに、張醫士から龐元が張世開の義弟にあたることを知らされた王慶は、張世開の意図を察知し、密かに手尖刀を購入して備えとした。
120回本における第103回の地の文に「如是月餘」とある。「1月ほど後」ということであるが、前述の出来事のうち、角弓の購入を命じられた9月上旬か、立替金の支払いを求めて拒絶された9月中旬かのいずれを基準とするかで、多少時期は異なってくる。
しかし、王慶が張世開を殺したのが10月下旬であるため、この描写と整合性を持たせると、9月中旬より1か月後の10月中旬の出来事となる。
10月21日 武松、行者の装束をまとう
張青は武松に対し、青州の二竜山に居を置く魯智深の庇護を求めるように勧めた。道中の取り締まりに対しては、孫二娘の提案により、2年前に彼女が殺した行者の装束をまとって変装することとなった。その日の道中、蜈蚣嶺に差し掛かった武松は、王道人と敵対して彼を殺し、その手籠めとなっていた張氏を解放すると、青州への旅を続けた
第31回の地の文に「將息了三五日」とある。駒田版では「四五日」と訳されていることもあり、中央値を取って4日とすれば、10月17日のから4日後、つまりは10月21日の出来事ということになる。
10月下旬 王慶、張世開らを殺害する
王慶は張世開の命で緞子を購入したが、買い直しを命じられたうえ、門限に間に合わず、牢城から閉め出された。王慶は途方に暮れた後、張世開の暗殺を決意すると、牢城に忍び込んだ。そのころ、張世開は龐元とらと酒宴中であったが、王慶は彼らの話を盗み聞きし、自分にとどめを刺そうとしていることを知ると、彼らを殺して逃走した。
120回本の第103回に「仲冬將近」とある。「仲冬」は11月、「將近」は「間近」であるため、10月下旬の出来事ということになる。また、同じく第103回には10月中旬から「過十數日」経過したことも記されている。ここからも10月下旬の出来事であることが分かる。
11月上旬 武松、孔明らと対立する
青州の白虎山にたどり着いた武松は、麓の居酒屋で孔亮と諍いを起こし、彼を打ちのめしたが、その後の道中で孔亮の兄である孔明の報復を受けて捕らえられた。その後、武松は孔明らの邸宅に連行されたが、たまたま滞在していた宋江に取りなされ、孔明らと和解した。
第32回の地の文に「又行了十數日」とある。10月21日より「十数日後」ということであるため、11月上旬になっていることは間違いない。
11月下旬 宋江と武松、瑞竜鎮で別れる
宋江と武松は孔一族のもてなしを受け、彼らの邸宅に滞在していたが、それぞれの目的のために邸宅を後にし、瑞竜鎮まで一緒に旅をしたところで別れた。
第32回によると、11月上旬より「一住過了十日之上」、「又留住了三五日」、「管待一日了」を経た後の出来事である。それぞれ、約10日、約4日、1日に相当するため、合わせて約15日、半月が経過したことにあるため、11月下旬になっていると考えられる。
12月2日 宋江、燕順らに捕らえられる
宋江は清風塞の知塞で義弟でもある花栄の庇護を受けるため、武松と別れて清風塞に向かったが、その途上の清風山で燕順らに捕らえられてしまう。燕順らは宋江を食べるつもりであったが、宋江が死に際に自分の名をつぶやくと態度を一変させ、丁重にもてなすようになった。
第32回の地の文に「臘月初旬」とある。「臘月」は12月であるため、まず12月上旬であることが分かる。その後に宋江が「住了五七日」して「臘日上墳」になっている。「臘日上墳」は12月8日のことであるため、その「五七日」前が当日ということになる。ここでは中央値を取って6日が経過したものと捉え、12月2日の出来事とした。
12月8日 王英、劉高夫人を捕らえる
山東地方では、12月8日に墓参りをする風習がある。劉高夫人は亡き母の墓参りに行く途中で王英の襲撃を受けて拉致されたが、宋江が王英を説き伏せたために釈放された。第32回の地の文に「臘日上墳」とある。「臘日上墳」は12月8日のことである。
12月14日 宋江、清風山を下り、花栄と再会する
しばらくの間、燕順らの世話になっていた宋江であるが、当初の目的である花栄との再会を果たすため、清風山を下りると、その日のうちに清風塞に入り、花栄と再会した。
第32回の地の文に「了五七日」とある。前述の12月8日より「五七日」ということであるため、例によって中間を取り6日後とすると、12月14日の出来事ということになる。
年内 飲馬川の山賊団結成
鄧飛と孟康は飲馬川付近の山にこもり、山賊団を結成した。第44回で楊林に山賊団の様子を聞かれた鄧飛が「也有一年多了」と言っている。山賊団を結成して1年ほどということである。この場面は政和7(1117)年であるため、その1年前であれば政和6(1116)年ということになる。