検証
各種の定義について
本項では、「年齢」で紹介した各登場人物の年齢を、どのように算出したのかを明らかにしている。序列は生年に従ったが、生年が同じ場合は50音順とした。また、文中の年代については、すべて「年表」で算出したものを用いている。回数については、100回本と120回本でずれがある場合のみ、120回本の回数を()でくくった。
基本的なルールとして、全ての登場人物の年齢は、数え年で表現されているものと見なしている。そのため、そこから1歳を引いた満年齢から生年を算出した。ただし、第2回の史進の年齢が「約有十八九歲」、第7回の林冲の年齢が「三十四五年紀」と表記されるなど、2つの年齢が記されていることも少なくない。その場合は、数の小さい方を採用し、そこから1歳を引くことで満年齢と見なした。
1076年 晁蓋誕生
第41回、宋江と晁蓋が梁山泊頭領の地位を譲り合うシーンで宋江が晁蓋が「(私よりも)長也大十歲(10歳年上)」と言っている。下記の通り、宋江は元祐元(1086)年生まれであることから、晁蓋は熙寧9(1076)年生まれということになる。
1081年 柴進誕生
第9回、柴進が初登場する場面で「三十四五年紀」と記されている。上記のルールに従い、年齢の「三十四」から1歳を引くと、満年齢は33歳となる。さらに、この場面は政和4(1114)年であるため、生年は1081(元豊4)年と導き出される。
1081年 林冲誕生
第7回、魯智深と林冲が出会うシーンで「三十四五年紀」と記されている。上記のルールに従い、年齢の「三十四」から1歳を引き、満年齢は33歳とすると、この場面は政和4(1114)年であるため、生年は1081(元豊4)年と導き出される。ちなみに、柴進とは同い年である。
林冲は第99(119)回、旧梁山泊軍が方臘を捕らえ、凱旋する途中に立ち寄った六和寺で中風となり、それより半年後に死去している。中風を発症したのは宣和5(1123)年9月ころであり、その半年後となれば、翌年の宣和6(1124)年になっていることは確実であるため、これを没年として計算した。これにより、林冲の没年齢は43歳ということになる。
なお、第7回で林冲は魯智深を兄とする義兄弟の誓いを立てているため、魯智深は少なくとも1081年よりも前に産まれていることになる。さらに言えば、百八星のうち、年齢が確認できる最年長者は柴進と林冲であるが、この件まで考慮すると、魯智深が最年長者の候補ということになる。
1086年 宋江誕生
第18回、初登場シーンにおいて、彼の容姿を表す詞の中で「年及三旬」と表現されている。「1旬」は10年に相当するため、数え年で30歳となり、満年齢では29歳となる。そして、この場面は政和5(1115)年であるため、生年は元祐元(1086)年と導き出される。
宋江の没年は、第100(120)回で宣和6(1124)年の「首夏初旬(4月上旬』)」であることが明記されているため、前述の生年より、没年齢は38歳ということになる。また、これにより、彼の弟の宋清の生年は、元祐元(1086)年以降であることが確定する。
1086年 張順誕生
第38回、漁場を荒らす李逵を咎めた張順の初登場シーンで「三十二三年紀」と記されている。上記のルールに従い、年齢の「三十二」から1歳を引き、31歳を満年齢とすると、この場面は政和7(1117)年であるため、生年は元祐元(1086)年となる。意外なことに、宋江とは同い年である。
また、張順は、第94(114)回、宣和5(1123)年の方臘との戦いの際に杭州で戦死しているため、没年齢は37歳となる。なお、張横は張順の兄であるため、当然、 元祐元(1086)年よりも前に産まれていることになる。
さらに、第38回の終盤、琵琶亭で張順、宋江、戴宗、李逵が食事をした際、李逵の方が張順よりも年上であるという描写があるため、李逵と、彼の兄の李達も、やはり元祐元(1086)年よりも前の生まれである。
1086年 張青誕生
実のところ、張青の年齢は2種類ある。本稿で採用しているのは、第28回で張青と武松が義兄弟となった際、張青の方が「卻長武松五年(武松より5歳年上)」であるとする描写である。
武松の年齢については、第24回、兄嫁の潘金蓮から年齢を聞かれた時に「二十五歲」と答えている。これを数え年とすれば、満年齢は24歳となる。第28回は、その翌年のことなので、この時の武松の満年齢は25歳となり、張青が5歳年上とすれば、張青は30歳ということになる。
この場面は政和6(1116)年であるため、張青の生年は元祐元(1086)年と導き出される。また、張青は第98(118)回、宣和5(1123)年の歙州攻めの際に戦死しているため、没年齢は37歳ということになる。
もう1つは、第24回、武松が孫二娘の魂胆を見抜いて叩きのめしたのを宥めるシーンである。ここでは、彼の外見を「年近三十五六」と記している。こちらは「近」の字が挿入されており、外見が「35、6歳に見える」と解釈したため、第28回の方を採用することにした。要は実年齢よりも5歳ほど老けて見えると言うことである。
1088年 関勝誕生
第63回、蔡京に年齢を問われた際に「三旬有二」と答えている。宋江の場合と同じく、「三旬」は30歳に相当し、それに2歳を加えれば32歳となる。これを数え年とすれば、満年齢は31歳ということになる。このシーンは宣和元(1119)年に相当するため、関勝の生年は元祐3(1088)年と導き出される。
1088年 兀顔光誕生
第85回、兀顔光の初登場シーンで「三十五六」と記されている。上記のルールに従い、年齢の「三十五」から1歳を引き、34歳を満年齢とする。この年は、第82回の梁山泊への招安の詔書や第89回の遼が宋に降伏を申し出た際の文書などから、宣和4(1122)年であることが確定しているため、生年は元祐3(1088)年となる。
兀顔光は、第89回で宣和4(1122)年中に旧梁山泊軍との戦いに敗れ、戦死している。要は年齢が明らかになった年と死亡した年が同じということであるため、没年齢は満年齢で34歳ということになる。
なお、彼には息子の兀顔延寿がいる。兀顔延寿は、先だって旧梁山泊軍と交戦し、敗れているが、父親の年齢からすると、20歳未満とかなり若い計算になる(満年齢20歳の子だとしても、この時点で14歳である)。
1088年 盧俊義誕生
第61回、盧俊義が易者(に扮した呉用)に占ってもらう際、「今年三十二歲」と言っている。これを数え年とすれば、満年齢は31歳となる。このシーンは宣和元(1119)年に相当するため、そこから生年を割り出すと元祐3(1088)年ということになる。
盧俊義は、宣和5(1123)年9月に旧梁山泊軍の生き残りが官職を与えられてから、宣和6(1124)年4月に宋江が毒殺されるまでの間のどこかで毒殺されている。そのため、一応、没年は宣和6(1124)年としたものの、宣和5(1123)年の可能性もある。
なお、呉用に占ってもらう際、盧俊義は「甲子年、乙丑月、丙寅日、丁卯時」と生年月日だけでなく、生まれた時刻まで明かしている。このうち、上記で算出した生年である元祐3(1088)年に最も近い「甲子年」は元豊7(1084)年あるため合致しない。
一方、「乙丑月」は、1088年の12月として一致する。さらに「丙寅日」は9日、「丁卯」は5時から7時の間であるため、盧俊義は12月9日の早朝に産まれたことになる。
1089年 西門慶誕生
第24回、西門慶が潘金蓮と密通した際、23歳の彼女に対して年齢が「長五歲」と言っている。これにより、西門慶の年齢は28歳、満年齢で27歳ということが確定する。
さらに、このシーンは政和6(1116)年であるため、西門慶の生年は元祐4(1089)年と導き出される。また、没年も政和6(1116)年であることから、没年齢も満年齢で27歳である。
ちなみに『金瓶梅』では、第10回で武松の殺人に対する判決が言い渡された際、判決文に政和3(1113)年であることが明記されている(『水滸伝』の第27回にも同様の判決文は登場するが、こちらには年月日の記載はない)。
そして、第4回、政和3(1113)年の前年の時点で西門慶は27歳(満年齢26歳)と言っているため、『金瓶梅』の西門慶は元祐2(1087)生まれとなる。なお、『金瓶梅』の西門慶は、武松に殺されずに生き延びるが、第79回、重和元(1118年)に32(満年齢31)歳で死去している。
1089年 楊雄誕生
第44回、楊雄と石秀が義兄弟の誓いを結んだ際、「今年二十九歲」と年齢を明かしている。これを数え年とすれば、満年齢は28歳となり、この年は政和7(1117年)であるため、楊雄は元祐4(1089)年生まれということになる。
楊雄は方臘との戦いを生き延びたが、第99(119)回で帰還中に立ち寄った六和寺で病死している。この年は宣和5(1123)年であるため、没年齢は34歳となる。
1090年 石秀誕生
第44回、石秀と楊雄が義兄弟の誓いを結んだ際、石秀は「今年二十八歲」と年齢を明かして義弟になっている。これを数え年とすれば、満年齢は27歳となり、この年は政和7(1117年)に相当するため、元祐5(1090)生まれということになる。
没年は宣和5(1123)年、没年齢は33歳。第98(118)回で昱嶺関の偵察に出向いた際、方臘軍の伏兵による一斉射撃を受けて戦死している。
1091年 武松誕生
第24回、兄嫁の藩金蓮に挨拶をした際、年齢を聞かれて「二十五歲」と答えている。これを数え年とすれば、満年齢は24歳となり、この時は政和5(1115)年であるため、生年は元祐6(1091)年となる。また、そのために彼の兄である武大は、それ以前の生まれということになる。
武松の没年については、『水滸伝』の中では触れられていないが、第99(119)回で六和寺の寺男となり、80歳で死去したことが語られている。80歳を数え年とすれば、満年齢は79歳ということになり、没年は乾道6(1170年)ということになる。南宋の二代皇帝である孝宗の時代に相当する。
1093年 施恩誕生
第28回の初登場シーン、彼の外見に対する描写で「二十四五年紀」と記されている。上記のルールから、「二十四」を数え年とすると、満年齢は23歳となる。このシーンは政和6(1116)年に相当するため、導き出される生年は元祐8(1093)年である。
施恩は第93(113)回、対方臘戦の常熟県の戦いで阮小二らの指揮下に入り、戦闘中に溺死している。この年は宣和5(1123)年であるため、生没年から算出される没年齢は30歳ということになる。
1094年 潘金蓮誕生
第24回で義弟(夫の弟)の武松に挨拶して年齢をたずねた際、彼が「二十五歲」と答えたのに対し、「長奴三歲(私よりも3歳年上)」と返している。よって、潘金蓮は数え年で22歳、満年齢で21歳ということになる。このシーンは政和5(1115)年であるため、そこから生年を算出すると、1094(元祐9)年生まれということになる。
一方、同じ第24回の後半で西門慶と密通した際、彼から年齢をたずねられた潘金蓮は「二十三歲」と答えている。これを数え年とすれば、満年齢は22歳となり、年齢がずれていることになる。
しかし、武松との対話シーンは政和5(1115)年の12月上旬にあたるため、西門慶と密通した時には年が明けていたと考えた場合、数え年では誕生日に関係なく、正月に1歳年を取るため、潘金蓮も数え年で22歳から23歳になったということで説明がつく。没年は政和6(1116)年であり、3月11日ころに武松によって殺されている。没年齢は22歳である。
ちなみに、『金瓶梅』では、第3回で『水滸伝』と同様に西門慶と密通した際に「二十五歲」と答えており、満年齢は24歳ということになる。この時点では年代は分からないが、月については、3月であることが明らかにされている。
一方、第10回で武松が西門慶を「殺し損ねた」際の判決文より、この時が政和3(1113)年8月であることが分かり、どちらの事件も同じ年に起こっている。よって、そこから潘金蓮の生年を算出すると、1089(元祐4)年ということになる。
没年については、第87回で武松に殺された際、「今才三十二歲兒」であることが明らかにされている。これも数え年とすれば、満年齢は31歳ということになり、生年から没年を算出すると、1120(宣和2)年が没年ということになる。『水滸伝』より5年早く生まれ、4年長生きしたということである。
1095年 賈氏誕生
盧俊義の妻。名前は不詳。第61回の初登場シーンで「年方二十五歲」と年齢が描写されている。これを数え年とすれば、満年齢は24歳となる。また、このシーンは宣和元(1119)年であるため、そこから生年を算出すると、紹聖2(1095)年ということになる。
賈氏は宣和2(1120)年1月中旬、盧俊義の身柄を巡る一連の抗争が終わった後、梁山泊によって拉致され、盧俊義から彼の部下の李固と密通し、盧俊義を梁山泊の一員として告発したという理由で殺された。没年齢は25歳である。
ちなみに、宣和元(1119)年の時点で、賈氏は盧俊義と結婚してから5年経っているという描写がある。つまり、政和4(1114)年、19歳の時に26歳の盧俊義と結婚した計算になる。
1095年 史進誕生
第2回の初登場シーンで史進の姿が描写された際、「約有十八九歲」とある。上記のルールから「十八」を数え年とすると、満年齢は17歳となる。このシーンは政和2(1112)年にあたるため、生年は紹聖2(1095)年と算出される。
史進は、方臘との戦闘中の第98(118)回で昱嶺関の偵察に出向いた際、龐万春の矢を受けて落馬した。この時は仲間に救出されているが、すぐに敵の伏兵の掃射を受け、仲間もろとも戦死している。これが宣和5(1123)年にあたるため、没年齢は28歳ということになる。
1096年 燕青誕生
燕青の年齢に関する記載は2個所ある。1つ目は、第61回、初登場のシーンで彼の容姿を表した詞の中に「二十四五年紀」とある。上記のルールに従い、「二十四」より1歳を引いて23歳を満年齢とすると、このシーンは宣和元(1119)年であるため、彼の生年は紹聖3(1096)年ということになる。
もう1つは、第81回、燕青が李師師と接触したシーンである。ここでは、李師師に年齢を明かした際、自分の年齢が「二十有五」であると言っている。これも数え年とすると、満年齢で24歳ということになるが、ここは宣和4(1122)年にあたるため、燕青の生年は紹聖5(1098)年ということになってしまう。
これは単純に、著者が時間の経過を忘れていたためであると思われる。しかし、一応理屈付けをするのであれば、李師師よりも年下ということにし、相手を敬うようにした方が好意を得やすいと判断して嘘をついたと考えられなくもない。
1096年 翠蓮誕生
姓は「金」。鄭大官人に多額の借金を背負わされ、借金返済のために酒場で歌を歌っていた。魯智深は、彼女のために鄭大官人を殺し、逃亡することになる。第3回の初登場シーンの外見に対する描写で「十八九歲」とあることから、上記のルールに従い、「十八」を数え年とすると、満年齢は17歳となる。さらに、このシーンは政和3(1113)年にあたるため、そこから生年を紹聖3(1096)年と算出することができる。
1096年 段三娘誕生
120回本のみに登場。年齢については、第104回の初登場シーンの描写で「二十四五年紀」と記されている。この年が宣和元(1119)年であることは本文中で確定しているため、上記のルールより「二十四」を数え年とすれば、23歳が満年齢となるため、生年は紹聖3(1096)年ということになる。
段三娘は第109回で旧梁山泊軍に捕らえられ、第110回で処刑されている。これが宣和4(1122)年にあたるため、没年齢は26歳ということいなる。ちなみに、段三娘には、段二、段五という兄がいるが、いずれも段三娘が生まれた紹聖3(1096)年以前の生まれということになる。
1096年 李師師誕生
第81回、燕青から年齢を聞かれた際に「二十有七」と答えている。これを数え年とすれば、満年齢は26歳ということになる。このシーンは宣和3(1121)年であるため、生年は紹聖3(1096)年と導き出される。
1098年 閻婆惜誕生
閻婆惜の年齢に関する記述は、第20回で2か所ある。1つ目は、王婆が閻婆を宋江に紹介した際、その娘の閻婆惜について「年方一十八歲」と言っている。もう1つは、宋江が閻婆惜を娶ったまま放っておいたことに関する記述であり、ここでは「況兼十八九歲」となっている。
しかし、前者の場合、閻婆惜の満年齢は17歳となり、後者の場合でも上記のルールに従えば17歳となるため、年齢が17歳ということに変わりはない。このシーンは政和5(1115)年にあたるため、閻婆惜の生年は紹聖5(1098)年ということになる。
閻婆惜の没年も政和5(1115)年である。宋江が梁山泊から受け取らなかった100両を脅し取ろうとしたため、逆上した宋江によって殺されている。
1100年 裴如海誕生
第45回、潘巧雲が石秀に裴如海の素性を解説した際、「長奴兩歲(私よりも2歳年上」と言っている。このシーン時点の潘巧雲は、満年齢15歳であるため、裴如海の年齢は、満年齢で17歳ということになる。また、このシーンは政和7(1117)年であるため、裴如海の生年は元符3年(1100)年と導き出される。
裴如海は政和7(1117)年、潘巧雲との密会を嗅ぎ付けた石秀によって殺されているため、没年齢は満年齢で17歳ということになる。
1101年 嬌秀誕生
120回本のみに登場。童貫の姪であったが、彼の養女として蔡攸の子(つまり、蔡京の孫である)に嫁ぐこととなる。しかし、王慶にたぶらかされ、彼と関係を持った。そのため、蔡京らは別件を口実に王慶を流刑に処し、嬌秀の婚姻を急がせた。
嬌秀の年齢については、第101回で「年方二八」と紹介されている。これは「2×8=16」の意味であるため、彼女の年齢は数え年で16、満年齢で15ということになる。また、このシーンの少し前に「政和六(1116)年仲春」という記述があることから、嬌秀の生年は 建中靖国元(1101)年と導き出される。
1102年 鄆哥誕生
鄆哥は、第24回で初登場した際、地の文で「十五六歲」と解説されている。上記のルールに従い、「十五」を数え年とすれば、満年齢は14歳となる。このシーンは政和6(1116)年にあたるため、生年は崇寧元(1102)年ということになる。
1102年 潘巧雲誕生
第44回、潘巧雲の容姿について語った詩の冒頭で「二八」と記される。これは、「2×8=16」の意味であるため、彼女の年齢は数え年で16、満年齢で15ということになる。 ちなみに、石秀の例を見ればわかることであるが、28歳の場合は「二十八」と記されるため、28歳の誤りではないと思われる。
このシーンは政和7(1117)年にあたるため、その生年は崇寧元(1102)年と導き出される。なお、同じく第44回において、潘巧雲の誕生日は7月7日であることが明記されている。西暦に換算すると1102年8月22日生まれということである。
潘巧雲の没年は初登場した年と同じ政和7(1117)年であり、裴如海との密通に気付いた夫の楊雄と彼の義弟の石秀によって惨殺された。そのため、没年齢も15歳となる。
1107年 瓊英誕生
120回本のみに登場。姓は本来ならば「仇」であるが、満年齢10歳の時に鄔梨に拉致され、彼の元で養育されたため、「鄔」でもある。しかし、どちらにせよ、全編通して名前でしか呼ばれることはない。
瓊英は、第98回の外見に対する描写で「方一十六歲」と記される。これを数え年とすれば、まず満年齢は15歳となる。120回本の挿入箇所の時系列は、遼への侵攻が行われた宣和4(1122)年の翌年も同じ年ということにして田虎と王慶との戦いも行わせるという無理やりな措置が取られているが、ともかく、宣和4(1122)年に満年齢が15歳であることになるため、生年は大観元(1107)年ということになる。
また、瓊英は満年齢9歳(原文「年至十歲時」)の時に父を殺され、葉清夫妻に養育されているが、この生年から算出すると、それは政和6(1116)年の時ということになる。さらに、その翌年に鄔梨に拉致されているため、こちらは政和7(1117)年の事件という結果が導き出される。
1113年 徐寧の息子誕生
『水滸伝』では名前は不詳。第56回で「六七歲孩兒」と描写される。上記のルールに従い、「六」を数え年とすると、満年齢は5歳となる。このシーンは重和元(1118)年にあたるため、そこから生年を算出すると、政和3(1113)年となる。
『水滸後伝』では徐晟の名で登場、第19回で「年紀不上十五六歲」と記される。「十五」を数え年とすると、満年齢は14歳となり、同じく第19回で、この年が靖康元(1126)年であることを確認することができるため、そこから生年を算出すると、政和2(1112)年となる。
1115年 小衙内誕生
重和元(1118)年当時の滄州知府の息子。第51回で「方年四歲」と記される。「四歲」を数え年とすれば、重和元(1118)年に満年齢3歳ということになるため、生年は政和5(1115)と導き出される。
小衙内は、彼の面倒を見ていた朱仝を陥れようとする梁山泊により、重和元(1118)年7月15日の盂蘭盆会の日に拉致、惨殺されたため、没年齢も3歳ということになる。
1123年 張節誕生
120回本のみに登場。張清と瓊英の息子。2人は第98回、宣和4(1122)年3月18日に結婚し、第110回、宣和5(1123)年1月18日の時点で瓊英はすでに妊娠していたことが語られる。
その後、張清は第115回で戦死しているが、それを瓊英が知ったのは、張節を出産した後である。張清が戦死した具体的な日時は不明であるが、それよりも後の第116回で「四月盡間(4月末)」という描写があるため、それが宣和5(1123)年4月よりも前であることは間違いない。瓊英が張清の戦死を知るまでのタイムラグを考慮しても、張節は宣和5(1123)年に産まれたことは確実であると考えられる。
ちなみに、後日談として、張節は「和尚原の戦い」に従軍し、手柄を立てたことが記されている。しかし、この戦いは紹興元(1131)年に行われているため、張節は8歳で戦いに赴いたことになってしまう。